【光文社】
『ヴルスト!ヴルスト!ヴルスト!』

原宏一著 



 ふだん、私たちが何気なく見ているものや手にしているものについて調べてみると、じつは想像以上に奥深い世界が広がっていて驚かされることがある。私たちの生きる世界には、じつにさまざまなモノが溢れているが、そのすべてのものに対して、私たちは特別な興味や関心をもって眺めているわけではない。これは、ウィリアム・ランデイの『ジェイコブを守るため』の書評でも述べたことだが、私たちの認識の外にあるものは、たとえそれが目の前にあったとしても見ることができない。だが逆に、一度そこに関心の目を向けてみると、そこには今まで知らなかった、あるいは知りようもなかった事柄と接する可能性が秘められている、ということでもある。

 本を読んでいて面白いことのひとつとして、じつに多くの人たちが、じつに多くの事柄に特別な興味を寄せおり、読書をつうじてその興味の一端に触れることができるという点がある。そしてそれは、今までの自分の世界に対する認識が改められることにもつながっている。今回紹介する本書『ヴルスト!ヴルスト!ヴルスト!』は、言ってみればソーセージづくりの物語であるのだが、他ならぬソーセージを題材に一本の小説を書いてしまうこと、いや、そもそもソーセージで小説を書こうという発想に、まずは驚かされてしまう。

「おれは来年、還暦を迎える。そう、六十だ。その還暦前の一年間をおれにしかできないヴルストの開発に打ち込んで、おれにしかできない店を開いてライフワークにしたい。――(中略)――だからこれはおれの人生最後の挑戦だ。」

 そのタイトルにも出てくる「ヴルスト」という単語は、ドイツにおけるソーセージの名称のことを指している。そしてドイツといえば、そのヴルストの本場だ。本書に登場する佐々木勇人は、もともとヴルスト作りとはまったく関係のない青年だったのだが、いわゆる「高認」、高等学校卒業程度認定試験の合格のため、俗世から隔絶されたような木造の下宿型アパート「かなめ荘」へと引っ越してきたことが、良くも悪くも彼の運命を大きく変えることになる。一年後には取り壊しが決まっている「かなめ荘」には、もうひとり住人がいたのだが、それが上述のセリフを言い放った男、藤巻伸太郎である。

 欠けた前歯ともさもさに生えた髭という初見の印象から、勇人が「髭太郎」と呼ぶこの男、なぜか自分だけにしか作れない本格派のヴルストを開発し、ヴルストの専門店をもつことに異様なまでの情熱を傾ける人物なのだが、最終的には大学合格を目指して受験勉強をしたい勇人にとって、かなりやっかいな隣人である。材料となる豚肉を切ろうと格闘して物音を立てるのは序の口で、手製の燻煙箱を作ったはいいが、作りが甘くて煙が部屋中に充満して火事と勘違いされたり、衛生観念に不勉強なまま試作のヴルストを食べさせ、そろって食中毒にかかったり、あげくには食費代わりの材料を提供するからヴルスト作りを手伝えと迫ってきたりと、なにかにつけて勇人の受験勉強の邪魔ばかりしてくるのだ。

 はたして、勇人の「高認」受験はどうなってしまうのか、そして髭太郎のヴルスト作りは成功するのか、というのが本書のおおまかなストーリーではあるのだが、この勇人と髭太郎のふたりの関係性や、その立ち位置に目を向けたときに、そこには思いがけず現代という時代の様相が浮かび上がってきて面白い。たとえば勇人は、「高認」受験に挑む青年であるが、それは必然的に、彼が高校を中退してしまっていることを意味する。じつは彼は中学校以来、およそ勉強というものにまっとうな興味を示すことができず、突発的に家を飛び出して、東京の中華料理店に雇ってもらっていたのだが、けっきょくそこも長続きせずに今にいたったという現状がある。

 大学受験についても、とくにやりたい学問があるというわけではなく、じつは二股をかけられていた恋人とのケンカの勢いでそうなったにすぎない。そこには、自身の人生において目的ややりたい事柄を見いだすことができずに悶々としている若者たちの典型があるのだが、それでも、とりあえず大学に入ることができれば、少なくとも今よりはましな人生になるのではないか、という淡い期待をいだいているところが勇人にはある。何より彼は、高校中退の就職事情の厳しさを身をもって体験している。そして今の自分が、まっとうな人生から早くも外れはじめていることをよく理解してもいる。

 だが、そもそも「まっとうな人生」とは何なのか。大学を出て企業に就職し、結婚して家庭をもつという、以前はごくあたり前のものであったはずの価値観は、すでに崩壊して久しい。今の若者には、一世代前の人たちにとっての、ごくありふれた人生すら高嶺の花となってしまっているのだ。だが、それでも他に目指すべきものもなく、これまで何かから逃げてばかりいた勇人の前に現れた髭太郎は、なぜか極上のヴルスト作りに精を出す変わったおじさんである。

 私たちにとってはなじみの食材であるソーセージだが、日本におけるその歴史は、じつは百年程度のものでしかない。また、肉をつめる腸の種類によってフランクフルトやウインナーといった名称が決まるなど、その豊富な薀蓄も面白いのだが、より重要なのは、髭太郎がいわば「職人気質」のヴルストを作ろうとしている点にこそある。

 日本に限らず、先進国と呼ばれる国々は資本主義の名の下に、大量生産・大量消費の経済を歩んできた。人件費の代わりに高価な機械を導入し、かぎりなく安い経費で安い商品を大量に生産することで利益を出すことを目指した今のやり方――というか、お金を稼ぐことこそが至上の目的であるかのような価値観に、今の私たちはどこかで辟易しているところがある。たしかに、ソーセージなどはスーパーへ行けば数百円で手に入れることのできる、ありふれた食材だ。だが髭太郎が目指すヴルストは、その概念とは真逆のベクトルを行くものである。けっして大量生産はできない、だが、職人による手作りであるがゆえのオリジナリティでもって、その付加価値を高めようというその方向性は、これからの経済のあり方、価値観の行方を示唆するものであるかのように見えるのだ。

 もちろん、そのこだわりゆえに生産効率は悪いし、利益も大量生産と比べて乏しいものとなる。じっさい本書においても、ヴルストのもととなる豚肉については、ある個人が独自のこだわりによって飼育している牧場産のものを使用するのだが、その牧場も品質こそ極上ではあるものの、経営については自転車操業状態だという。単純に「利益」という点では非効率でしかない手法を、それでもなおとりつづける人たちがいる。そして、もしより多くの人たちがこうした方法に注目するようになったとしたら、いったいどのような品質の商材が今後生み出されていくのか、想像するとわくわくしてくるのは私だけだろうか。

「早い話が、だれかが決めた制度のために頑張るほど馬鹿馬鹿しい努力もねえだろうが。しょせんは制度の枠組みの中でもがいているにすぎねえわけで、そんな目的のために頑張ったところで屁の足しにもならんと思うがな」

 人生は、受験勉強のように「傾向と対策」で乗り切れるほど単純なものではない。だが、そうであるからこそ面白いという考え方もある。そしてその多種多様な人生のあり方に、「ソーセージを極める」という道があってもいい。まさにそのタイトルのかけ声のように、それまでにない道を歩もうとする人たちに「乾杯」とエールを送りたくなるような作品である。(2014.07.20)

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