【理論社】
『ひねり屋』

ジェリー・スピネッリ著/千葉茂樹訳 

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 スティーヴン・ダルドリー監督の「リトルダンサー」という映画がある。これは、ある貧しい労働者階級の少年が、バレエとの出会いによって自分の内にある才能に目覚め、プロのバレエダンサーとして成長していく過程を描いた作品であるが、この少年は最初、「男は男らしく」という理由でボクシング教室に通わされており、少年は父親から押しつけられる、相手を力でねじふせる暴力的な力強さと、それとはいっけん正反対のように見える「バレエ」をやりたい、という自分の内なる欲求との板ばさみに葛藤しなければならなかった。

 これは私も昔はそうだったのでわかるのだが、小学生くらいの男の子というのは、とかく乱暴な言葉遣いで喋ったり、危険な場所へ行ったり、見ていてハラハラさせられるようなことをしでかしたりするものだ。これはもちろん、子ども特有の好奇心の成せる技でもあるのだが、それ以上に子ども――とくに男の子というものは、自分がどれだけ勇敢で力強い人間であるか、ということを主張せずにはいられない部分がある。彼らがことあるごとに大人の真似をしたがる、というのも、そうした側面から出てくる行動であるが、まだ想像力をはぐくむための経験に乏しい彼らのそんな純粋な思いは、ときにカエルを爆竹で木っ端微塵にしたり、昆虫の頭や羽をむしりとったりといった、子どもであるがゆえの残酷な行為へと結びついたりもする。

 本当の勇敢さとは何か、人としての真の強さとはどのようなものなのか――たんに痛みに耐えたり、暴力に訴えるといった即物的な力強さとはまったく異なった、心の強さを主題としたという意味では、「リトルダンサー」と本書『ひねり屋』はよく似た作品だと言うことができる。

 アメリカのとある町で毎年おこなわれるファミリー・フェスティバル――その最終日に開催される「鳩撃ち大会」は、五千羽の鳩を空に放ち、それを射撃手が銃で撃ち落すという競技である。本書のタイトルにもなっている「ひねり屋」とは、撃ち落されたもののまだ息のある鳩の首をひねってとどめをさす、という役目をはたす者であり、それは十歳になったこの町の少年の仕事となっている。もうすぐ十歳の誕生日を迎えようとしている主人公のパーマー・ラルーには、誰にも打ち明けていないひとつの秘密があった。それは、「ひねり屋」にはなりたくない、ということである……。

 毎年五千羽の鳩を撃ち殺すというフェスティバルのイベントはもちろんのこと、死にかけている鳩にわざわざとどめをさすことが、十歳の少年たちの名誉となるという、ちょっと考えれば残酷この上ない行為を正当化しているこの町に生きる少年たちにとって、「ひねり屋」となることは、けっして避けることのできない大切な通過儀礼のようなものだと考えていいだろう。とくに、九歳の誕生日にようやく友達として認めてもらえたビーンズたちにとって、鳩の首をひねることは、言わば勇敢な男の証のようなものである。そんな友達の前で、「ひねり屋」になるのは嫌だ、などとは口が裂けても言えはしない。そしてそれは、両親の前でも同じことだ。とくに父親はかつて、「鳩撃ち大会」で最優秀シューター賞をとったこともある射撃手なのだ。

 そんなパーマーの部屋に、一羽の鳩が迷い込んでくる。

 いくら追い払っても、気がつくと部屋の窓の前にやってきてはくちばしでコツコツと窓ガラスを叩くことをやめない鳩に、パーマーはニッパーと名前をつけ、誰にも内緒でニッパーを飼いはじめることになる。だが、もしビーンズたちにこのことが知れたら、きっとニッパーは首をひねられるに違いない――はたして、パーマーはニッパーを守りきることができるのか、そしてついに迎えることになる十歳の誕生日に、彼はどのような決断をくだすのか?

 たとえば、本当は人形遊びが大好きなのに、そのことで友達にからかわれたり、「男らしくない」と咎められるのが嫌で、友達といっしょのときにはわざと乱暴な振る舞いをしてみせたりする、というのは、この年代の男の子にはよくあることだ。だが、そうした振る舞いを続けていくことが、かならずしもその男の子の成長に良い影響をおよぼすとは限らない。自分を取り巻く環境――とくに、鳩は汚くて不潔な動物だといい聞かされる環境のなかにあって、ただ自分だけが、その鳩を愛らしいと感じてしまうという葛藤を抱えながら、鳩がいる部屋の内と外の二重生活を綱渡りのようにおくっていくパーマーの姿は、いかにも子ども特有のユーモア溢れるものであるいっぽうで、どこか悲痛さをも感じさせるものがある。

 いっけん自由奔放のように見えて、じつは厳格なルールと掟で成立している男の子たちの世界――こうした子どもたち独自の世界を見事に表現していることも本書の大きな特長であるが、「ひねり屋」になりたくない、というパーマーの葛藤は、その世界の外から眺めたとき、じつになんでもないことのように見える。じっさい、男の子の世界とは関係ないところにいる幼馴染のドロシーは、「じゃあ、ならなきゃいいのよ」と答えている。それがきわめて正論であることは、おそらくパーマー自身がよくわかっているはずである。あとパーマーに足りないのは、自分の心の声を信じるための、ほんの少しの勇気、そして彼の周囲にいる人たちの、ほんの少しの理解だけなのだ。

 それにしても、もしパーマーのもとにニッパーが来なければ、もしかしたら本書の最後はまったく違ったものとなっていたかもしれない。そういう意味では、この鳩はまさに、ひとりの少年のこれからの人生を大きく変えた鳩だと言えよう。(2003.06.03)

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