【新潮社】
『ガープの世界』

ジョン・アーヴィング著/筒井正明訳 



 人生における不幸な出来事というのは、生きているかぎり常にその身に降りかかってくる可能性がある、という意味では人生そのものと分かちがたく結びついている、と言うことができるのかもしれない。私たちはそれぞれの主観の生き物ではあるが、その主観はかならずしも世界そのものと一致するわけではなく、どんなに幸福な人生を送りたいと思ったところで、不幸な出来事を完全に避けるための方法があるわけでもない。ひとりの人間として生きていく――それは、けっして意のままにならない世界を相手に戦いつづけていくことと似ている。

 小説を書くという行為の裏にあるのは、その人にとっての世界を再構築したいという欲望だ。けっして意のままにならない、複雑怪奇で、理不尽で不条理なこの世界を、想像力を武器に自分にとって納得のいく形へと造り変えていくこと――世のなかの不幸に対する折り合いのつけ方というのは、人それぞれではあるが、今回紹介する本書『ガープの世界』のような作品に触れると、その方法のひとつとして小説という表現形式が存在することの奇跡を、あらためて賛美せずにはいられない。

 かくのごときがT・S・ガープにあたえられた世界だった。優秀な看護婦から、彼女自身の意思と球状銃座の射手の最後の一発の精液でもって生まれたガープの。

 女は男の配偶者となり、家を守ることに専念するという価値観があたり前だった第二次大戦中のボストン、その病院のひとつで看護婦をしていたジェニー・フィールズは、頭を負傷して白痴となったガープ三等軍曹と男女としての欲望とは無縁のセックス――純粋に、子どもを授かるためのセックスをおこなってガープを産んだ。女でありながら仕事をもち、何より独りでいることを好んだ彼女は、映画館でしつこく言い寄ってきた兵士を相手にメスで傷害を負わせるほどの「一匹狼」な性格だったが、そうした世間の価値観とは相反する性格ゆえに、ふしだらで下品な女というレッテルを貼られることになる。本書は、そんなジェニーの息子であるガープの生涯をつづった作品であるが、こうした奇妙な生い立ちが象徴するように、ガープの生はそのまま自分の周囲に広がる世界をどのように定義するか、という問題と常に向き合いつづけていくことと結びついている。

 人間ひとりひとりが世界をどうとらえるか、という問題は、本書の主人公にかぎらず誰しもが直面する問題ではあるが、子どもたちの大半は、両親を中心とする「家庭」という小さな世界のなかで、まずは育っていく。自分の父親や母親という、もっとも近しい血縁関係で構成される世界――それは言ってみれば、血のつながりという有無を言わせない強烈な関係性によって守られた世界観であり、より広い世界を吸収するための土台として申し分ないものでもある。

 そうした世間一般の家庭とくらべると、ガープの世界はかなり特殊な部類に入る。そもそも彼は「フィールズ」という姓すら持たされていないし、父親にいたっては「ガープ」という名前しか知らないという男である。彼に与えられたのは「T・S・ガープ」という名と、ジェニー・フィールズという母親とのつながりだけだ。もちろん、ジェニーはガープの教育のために多くの愛をそそいでくれたし、彼女が名門校であるスティアリング学院の専属看護婦となり、自らいくつもの講義を聴講していたのも、後に息子をこの学院に入れたときのことを考えてのことである。だが、小さな「家庭」に収まることを良しとせず、学院看護婦として働きながら子育てをすることになったジェニーにとって、「家庭」という単位がどこかその境目の曖昧な、定義しづらいものとして映っていたことも事実であり、それはそのまま息子であるガープの、最初に接する強固な世界としての「家庭」の曖昧さにもつながっていくことになる。

 繰り返しになるが、本書はガープという一個人の生涯を書いたものであり、作品のなかで彼は普通に異性に興味をもち、ふつうにある女の子に恋もすれば、学院生活においてはレスリングの選手としての才能を開花させる、という形で青春を謳歌もする。後にヘレンという女性と結婚もするし、子どもも授かってごくあたり前の家庭を築いてもいく。ただ一点、作家となることを志すことを除いては、誰にでもありえそうな人生を歩んでいるガープであり、その点では、後に自叙伝となる『性の容疑者』を書き上げて一世を風靡し、当人の意思とは無関係に世の迷える女性のために戦う女性活動家として祭り上げられてしまったジェニーの生涯のほうが、よほどドラマチックなところがあると言える。だが、にもかかわらず、私たち読者がガープの生涯に――彼のとらえる世界の行く末に興味をもたずにはいられないのは、本来あるべき強固な「家庭」という土台をもたないまま、自分にとっての家族の形を模索しようとするその姿勢が強固だからであり、その具体的な方法として小説創作が深く絡んでいるからに他ならない。

 彼は競争意識から作家としてスタートしたのであり、そしていま、それと同質の競争本能から、小説のスランプから脱しようとしていた。

 ガープの人生と小説の創作活動は分かちがたく結びついている。けっして多作というわけではない彼の創作物は、いずれも人生における大きな転機とともに書かれている。そしてその転機は、けっして彼にとって幸福なことばかりではない。むしろ不幸な出来事について、それを客体化するために小説を書くのであり、そのことにこそ多くのエネルギーを費やそうとする。けっして安心できる場所ではない世界――多くの悲劇や死によって彩られている世界の本質を見抜いたガープが、それでもその世界で生きていくために客体化された世界は、悲劇でありながらけっして悲劇的な演出をとることなく、きわめて上品なユーモアのセンスでもって描かれていることに、私たちは気づくことになる。

 ジェニーやガープにかぎらず、本書に登場する人たちは、性転換をはたしたロバータ・マルドゥーンしかり、過激な女性団体の中心として祭り上げられた強姦被害者のエレン・ジェイムズしかり、大なり小なり自身の思いや考えとは無関係に、彼らを定義づけようとする世間の流れによって翻弄されるような人生を送っている。そしてそれぞれが、それぞれのやり方でそのままならない生を生きようとしている。それは、あるいは滑稽なようにも見えるのだが、その滑稽さは誰しもが抱えるものであり、だからこそ私たちはその生涯に何かを感じ入ることになる。

 人がこの世に生を受けたとして、その先に待っているのが死という名の無であるとするなら、人生というものにどのような意味があるのかということになってしまう。しかしながら、私たちは本書をつうじて、ガープをはじめとする登場人物たちが、たしかにその世界を生きていたという思いをたしかに感じることができる。そしてそのとき、「小説家というのは、死に至る患者しか診ない医者のことだ」と語ったガープの世界に、あらためて魅入られずにはいられなくなるのだ。(2011.10.12)

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