【角川春樹事務所】
『樹の海』

結城五郎著 



 よく、人間関係やコミュニケーションの大切さが問われるようなときがあるが、私たちのふだんの生活のなかで、まぎれもない個人どうしの人間関係というものを、はたしてどのくらい深く結んでいるだろうか、ということをふと考えることがある。社会に出て、会社に勤めたり何らかの職を身につけたりして、私たちはそれなりにいろいろな人と接する機会が多くなる。だがそこにあるのは、たとえばある会社の社員と顧客という関係であったり、部下と上司という上下関係であったりすることが圧倒的で、かならずしも「私」という一個人である必要性はない。じじつ、社会に出て働くという行為において、個人は何らかの役割をはたすことさえできれば、それで世の中はまわってしまうところがある。そこでは、まぎれもない個人としての人間づきあいは、ともするとわずらわしく、また面倒臭いものでさえあるのだ。

 ファーストフード店のアルバイトといったものであれば、あるいはそれでいいのかもしれない。やってくる客に対してマニュアルどおりの接待をする――そこに必要以上の人間関係が成立しなくとも、ファーストフード店はファーストフード店としてやるべきことさえやれば、それで客は満足する。では、医者と患者の場合はどうだろうか。医者は、病気や怪我をかかえている患者を治療することが仕事だ。だから極論を言えば、病気や怪我を治すことができればいい。だが、そうした治療行為が完全に機械まかせになりえないのは、医者も患者もまぎれもない人間であり、それゆえに生じる個人差、あるいは個体差というものが大きな問題になってくるからに他ならない。人の命を救う、体の悪いところを治療するという行為は、それだけ突っ込んだ人間関係を必要とする、という意味で、小説のテーマとしてはなかなかに刺激的なものだと言える。

 今回紹介する本書『樹の海』に登場する長谷純は、救急指定病院である湘南慈愛病院に派遣させられてきた新米医師だ。医学部卒業後に母校の内科学教室に入局した彼は、この病院で二年間の勤務を終えたのちは、内科学教室の医局に戻ることになっている。そんな彼がはじめて主治医として受け持つことになった患者は、末期の膵臓癌で死を待つしかない、という状態にあった。そして今のところ、患者は自分の癌のことを知らずにいる。それまで彼を診てきた医師の誰もが、彼に癌の告知をすることを避けていたのだ。

 この作品のなかでは、しばしば学生闘争にかんするニュースのことが書かれ、「全共闘」といった言葉が出てきたりするが、それはたんに作品世界の時代を特定したい、ということだけでなく、今ではなかば当然のものとして認知されつつあるインフォームド・コンセントの概念がまだ希薄な時代であることが、本書のテーマに大きなかかわりをもつからに他ならない。とにかく患者を少しでも長く延命させようというのが当時の医師界の常識であり、またそれが医師としての責務であるという気風のなかで、長谷純というキャラクターはあきらかにその他の医師とは一線を画す性質を帯びている。

 長谷純を取り巻く状況は、当初からかなり厳しいものだ。父の死、父に代わって返済しなければならない莫大な借金、脳卒中で体の半分が麻痺してしまった母と、その母を介護しなければならない兄夫婦――そんななか、純が医師になろうと目指したのは、シュヴァイツァーの伝記に影響されたこともあるが、それ以上に、食道癌だったにもかかわらず、家族の負担を考えて癌治療を受けないという父の意向を受け、彼の苦痛をやわらげる医療を施してくれた馬場医師の影響も大きなものとして書かれている。つまり彼にとっての医療とは、何より患者の苦痛を取り除くこと、という前提において成り立つものである。そしてその生来の頑固さにくわえ、反骨精神ももちあわせている彼は、それゆえに物語が進むにつれて、さらに自身の取り巻く状況を厳しいものにし、追いつめられていくことになる。

 一方的に感情を押しつけようとしたあげく、逆恨みしてくる看護婦、痛みをやわらげるための麻薬の使用を極端に嫌う内科医長、増える一方の兄夫婦の負担に、どこか政略的なものを匂わせるお見合い話――そうした、次々と押し寄せてくる逆境に、はたして純がどうやって立ち向かっていくのか、という点において、本書の人間ドラマは読み応えのあるものである。だが、先程の癌告知の是非をはじめ、登場人物たちはそれぞれけっして軽くはない事情をかかえており、それゆえに誰かを一方的な悪としてとらえることの難しい本書において、重要なのは、純があくまで患者をひとりの人間としてとらえ、その人の意思を最大限尊重していこうという姿勢だと言える。

 そして、そんなふうに考えると、本書のなかでいっけん意味のない要素のように思える、患者の娘である矢田由里子との恋愛の行方もまた、別の意味合いを帯びてくることになる。誰かに恋をする、という感情は、打算や思惑といった理性とは対極にあるもので、そこには一個人としての心の触れ合い、関係性が不可欠のものだ。だが、本書に登場する人たちの大半が、真の意味で相手を人間としてではなく、何らかの「役割」としてしか見ていない、という事実が見えてくる。医師と患者という関係はもちろん、由里子の兄もまた個人としての父ではなく、患者としての父という枠にとらわれているし、彼女の婚約者は、純のことを由里子の新たな恋人という枠にはめようとする。純の見合い話にしても、看護婦の一方的なモーションにしても、いずれも当人の気持ちを無視したところで勝手に話が進んでしまっているのだ。

 著者は『心室細動』でサントリーミステリー大賞を受賞した現役の医師で、それゆえに病院や医療に関する知識には、専門家だからこそのリアリティーを感じさせるものがあるが、本書にかんしてはミステリーとしての要素はない。これはあくまで私見だが、著者は男女の恋愛のなかに、医師と患者があくまで一個人として向き合うという要素をふくめることで、より良い医療とは何かを模索しようとしたのではないだろうか。じっさいに、当人の意思を尊重して癌告知に踏み切ることになった純だが、完全に家族の同意の得られないままの告知であるうえに、その後の患者の症状の悪化などを見るにつけ、彼の自信と決意は大きく揺さぶられていく。自分は本当に医師として正しいことをしているのか、患者のためになっているのか――その迷いは、ことさら由里子への恋愛感情を否定し、あくまで医師と患者の家族という関係に収めようとする彼の心の動揺と相まって、読者の心をも大きく揺さぶっていくことになる。

 となれば、純が末期癌患者に対して行なった治療が正しいものかどうかは、そのまま純と由里子の恋愛感情の行方とつながっていくことになる。個人が個人として、どこまで尊重されるべきなのか、医師としての役割は、あくまで延命をつづけることなのか、それともひとりの人間としての尊厳ある死なのか。現代においても完全な結論の出ない難しい問題に恋愛という要素から迫ることを試みた本書が、最後にどのような結論を見出すことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.11.06)

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