【講談社】
『島はぼくらと』

辻村深月著 



 「個人の原子化」という言葉がある。親族、地域社会、企業といった中間共同体への帰属意識が希薄になり、何かの一員であることよりも個人であること、スタンドアロンで生きることを重視する現象のことを指す言葉であるが、この言葉の背後には、「人と人とのつながりがなく、個人がバラバラになっている状態」という、ネガティヴな意味合いが込められていることが多い。この「個人の原子化」は、「自分らしく生きる」という考え方と非常に相性がいい。なにせ、自分のライフスタイルを自分で決定することが可能なのだ。そしてこの考え方は、「個人の自由と平等」という近代以降に主流となった価値観ともなじむものである。

 じっさい、私のなかに植えつけられている「常識」では、家族や村社会といった共同体に対する印象は、あまり良いものではない。むしろ、個人の自由を極端に制限するものとして、そうしたものは排除されるべきだという意識が強いのだが、言うまでもなくひとりの人間にできることなど限られているし、そもそも人はひとりでは生きられない。そして、個人でありつづけるということは、自分のあらゆる選択に対して、そのすべての責任を個人で負うということを前提としている。これは言い換えるなら、本来であれば個人レベルではどうすることもできないような事柄すら、個人の責任として押しつけられる可能性があることを意味している。以前に騒がれていた生活保護の問題などは、「個人の原子化」のかかえる問題を象徴するようなものであるが、個人レベルの幸福しか見えていないがゆえにその制度を悪用しようとする者が後を絶たず、そのあおりで個人レベルではどうにもできない事情をかかえた生活保護受給者やその関係者へのバッシングを生み出している。まるで、生活保護を頼るようになったのは、お前個人の責任だと言わんばかりに。

 自由と平等という言葉は、一面では人としての理想ではあるのだろう。だがすべての人間が、自由と平等という価値観を謳歌できるほど強いわけではない。そう、人によっては自由であること、平等であることは、大きな負担でもあるのだ。今回紹介する本書『島はぼくらと』は、冴島という瀬戸内海の島を舞台とする作品であるが、そこで形成されている地域社会は、「個人の原子化」というものをあらためて考えさせられる要素に溢れている。

 これまで、故郷なのにうまくいかないのかと思ってきたのは間違いだった。そうじゃない。故郷だからうまくいかなかったのかもしれない。故郷ほど、その土地の人間を大切にしない場所はないのだ。

 人口三千人弱の冴島で育った四人の同級生、高校二年の池上朱里、榧野衣花、矢野新、青柳源樹の四人がメインとなって進行する本書において、まずはこの四人の立ち位置に注目する。冴島には中学校まではあるが高校はなく、彼らは本土にある高校にフェリーで通っている。学校という、子どもたちにとってのメインの活動の場が、はじめて島の外に移る――それが彼らにとっての高校生になるということであるが、それは同時に、それまで慣れ親しんできた環境を、文字どおり外からとらえなおす機会でもある。島のなかにいるだけでは見えてこなかったものが、外に出ることで見えてくるようになる、そんな立ち位置に四人はいることになる。そして彼らはまだ十代の少年少女であり、既存の価値観に染まりきらない柔軟な心をもってもいる。

 そしてもうひとつ注目すべき点として、島の方針がある。冴島は村長の積極的な働きかけで、Iターンの移住を推奨している。それは島のなかによそ者を――島で生まれ育ったわけではない人々を受け入れるということであり、観光も含めて人の出入りがけっこう激しいという事情がある。じっさい、源樹の家族はIターンで島にやってきた人たちで、島でホテルをはじめとするリゾート施設を経営している。いっぽうで衣花の家族は島で古くから漁業を仕切っている「綱元」の家系で、行政も無視できない影響力を島ではもっている。

 言ってみれば、本書の中心となる四人の高校生は、そのまま島のかかえるさまざまな事情の縮図でもあるのだ。そして、島のなかではいろいろと複雑な利害関係にある四人が、ただの高校の同級生としてつるんでいるということそのものに、大きな意味がある。四人の物語は、そのまま島の物語でもある。そして彼らであるからこそ、島で生まれ育った人たちにも、なんらかの事情で島に渡ってきた人たちにも、同じように接することができる。少なくとも、そうできるだけの立場にある。

 本書の基本はミステリーだと言っていい。だが、ミステリーといっても人が殺されたりするようなたぐいのものではなく、島の日常のなかで起こるちょっとした謎とその真相が少しずつ明かされる、という意味でのミステリーだ。そして本書が面白いのは、謎の発端となるものは大抵が島の外から持ち込まれるにもかかわらず、その真相は島の内部に以前からあった問題と結びついているという点である。たとえば、冴島のどこかにあるという幻の脚本の情報をもたらしたのは、島の外から来た胡散臭い男であるし、シングルマザーの多葉田蕗子や、なぜか村の一等地にある旅館跡に移り住むことになった本木などは、過去そのものが島の住民からすれば謎の部分を秘めている。

 言い方を変えるなら、もし彼らが島に来なければ、謎が謎として成立することはなかったのかもしれない、ということだ。だが彼らの存在によって、それまでよく見えてこなかった――とくに、まだ子どもでしかない四人の高校生たちにも意識されてこなかった島の問題が、はじめて表面化されたということでもある。それは、ある意味で島のネガティヴな部分、村社会特有の閉鎖的な環境ゆえの問題をはらんだものであり、けっして観光のアピールになるようなものではない。そして、他ならぬその島で生まれ、あるいは育ってきたがゆえに、四人の高校生はそれらの問題から無縁でいることはできない。それぞれの家の立場が、そうすることを許さない。

 外から隔絶されたひとつの村社会が、その閉鎖性ではなく、開放性という側面から描かれる。そして、人の行き来が活発になることで生じてくる問題そのものが、ミステリーの謎として成立する。それこそが本書最大のテーマであり、何より著者が書きたかったことでもある。

 島を去る者、島に来る者。そして、去ってしまっても、その場所に残るものはある。
 冴島の日々は、続いていく。

 人が自由で平等である、というのは、ある意味で幻想でしかない。じっさいには人は、生まれ育った家族や町村といった小さな共同体の影響からは逃れられない。だが、それを知らないままで生きていくことと、それを知ったうえで何かを選択するのとでは、雲泥の差がある。故郷だからこそうまくいくことと、故郷だからこそうまくいかないこと――そうしたさまざまな事情をかかえながらも、冴島の日常は続くし、そのなかで島にやってくる者もいれば、島から出ていく者もいる。たんに生まれ育った場所というだけでない、個人が自分の「居場所」だと思うことができる「故郷」という場を、はたしてこの作品がどれだけ意識しているのかはわからない。だが、少なくとも「個人の原子化」が進み、個人の自由より個人の責任の重さに個々が押しつぶされそうになっている今の時代において、本書という形の物語が出てきたことの意味を考えずにはいられない。(2014.04.03)

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