【河出書房新社】
『魔女の息子』

伏見憲明著 

背景色設定:

 他人の強烈な感情の発露が、このうえなく苦手な自分がいる。どこかの飲食店で怒鳴り声をあげて憤る客や、人目をはばからずに泣きわめく人――まるで、周囲の人たちに自分の存在、自分の感情を押しつけようとするかのように、剥き出しにされた感情表現は、大袈裟なものであればあるほどどこかわざとらしく、またうっとうしいもののように映ってしまう。いい年をした大人が、子どもみたいに自制心をなくしていることへの気恥ずかしさもあるのだが、なによりそうした感情が、論理性を度外視した部分で引き起こされていることへの恐怖が、私のなかで苦手意識となっているのではないかと、最近になって思うようになっている。

 多くの人たちとひとつの社会を形成していく生き物である私たちにとって、他人との付き合いは欠かすことのできないもののひとつであるが、もしあらゆるコミュニケーションを理知的に進めていくことができたら、どれほど気が楽だろうかと思ういっぽう、他人の喜怒哀楽に触れるというのは、その人のまぎれもない個性に触れることに他ならないことも知っている。たんに情報を伝達しあうだけの人間関係を超えて、より深く相手のことを知りたいと望むのであれば、相手が何を考え、何を感じているかということについて、踏み込んでいくしかない。なぜなら、理性だけではけっして推し量ることのできない部分である感情を知り、ときに共感したり反発したりすることこそが、相手を特定の個人として認識するための重要な要素であるからだ。

 肉としてしか存在しえないこの空間は、僕の心のPH値にも実によく馴染む。名前を知られていないこと、名前で呼ばれないこと、名前に託されないこと、ここでの僕は誰でもないし、誰にでもなれる。

 冒頭での生々しい男同士のセックスシーンが衝撃的な本書『魔女の息子』であるが、一人称の語り手である笠原和紀に付随する、ホモセクシャルであるという要素は、私たちが考える以上に刹那的で、また打算的なものが見受けられる。小説における同性愛というのは、それがアブノーマルなものであるがゆえの純粋な恋愛感情という意味合いを含むことが多いのだが、語り手になかにおける同性愛は、恋愛ではなく、むしろ性愛と強く結びついているところがある。ゆえに、彼の相手となる男は、むろんある程度の好みはあるものの、基本的には名前さえ知らない行きずりの者が圧倒的であり、相手の個性というものを端から問題としていない。より露骨な言い方をするなら、快楽が得られるのであれば誰でもいいし、また同性であるという要素もさほど重要ではない、ということでもある。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、著者のなかで「恋愛」と「性愛」について、明確な区別がついている。そして語り手のくり広げる同性愛は、どこまでいっても「性愛」どまりであって、そこから特定の誰かを愛するようになる「恋愛」へと発展していくことがない。自分を愛せない人間が他人を愛せないのと同じように、相手の個性をないがしろにする者は、しばしば自分自身の個性さえもないがしろにしてしまうものであるが、本書における語り手の立場が、まさにそれにあたる。その場かぎりの快楽にこだわるという彼の同性愛のスタイルは、自分自身の存在もふくめて他の誰かと代替可能な存在でしかない、という強い認識のもとに成り立っているところがある。そしてそれは、同性愛以外の方面においても基本的には変わらない。

 たとえば、語り手はフリーライターであるが、彼を故意にしてくれている女性誌編集者の須藤かおりとの関係がきわめてビジネスライクなのは、何も語り手が同性愛者であるからというだけでなく、彼女にとって自分は「その他大勢のひとり」であり、「いつでも交換可能な誰か」でしかないことを彼自身が受け入れているからに他ならない。そして語り手が、そうした無個性な関係に安住しているところがあるのも事実である。そのいっぽうで、須藤かおりは誰よりも自己顕示欲の強い人間として書かれているし、語り手の母親は齢七十七にして、同い年のボーイフレンドをつくり、あちこち旅行して回るという奔放さを見せつける。そして彼女たちが一様に恋愛をしているという意味では、語り手と対極の位置にある人物でもある。

 こうした語り手と、それ以外の登場人物との対比によって際立ってくるものがあるとすれば、それは語り手と、彼の生きる世界との関係の希薄さに尽きてくる。特定の誰かといくばくかの距離を置いて、けっして相手のほうに歩み寄ったりはしないし、逆に相手にも必要以上に自分のほうに踏み込ませないという態度――行きずりの男とセックスするときでさえ、エイズのことを匂わせて相手との距離をはかろうとする彼の態度は、自分が誰かにとって特別な存在となることを怖れているようにさえ見えてくる。生まれた瞬間に決定づけられ、けっしてそこから逃れられない血縁関係さえも、語り手にとってはあまりに近すぎる人間関係なのだ。

 それにしても、人は血がつながっているというだけで、こんなに無防備に相手から厚意を受け取れるものなのだろうか。それともお金という媒介こそが、肉親の愛とやらを保証してみせるのか。僕には、血縁という関係の無神経さが堪え難く感じられた。

 自分がまぎれもない自分自身であるという認識は、なにより自分以外の誰かが存在することではじめて成立する概念である。そしてその第一歩は、相手との比較対照によって生じてくるものであるが、語り手のなかには、そうした過程を踏むことで自身の主体を確立していくことをなかば放棄しているようなところがある。自他の境界線すらぐちゃぐちゃになるような濃厚な性愛を求め、エイズによる死という危険性に自分の身をさらしつづける語り手は、まるでこの世のどこにも身の置きどころを見出せない孤独な放浪者のようでさえある。孤独であるということ――しかしそのいっぽうで、人と人との真のつながりというものを求めずにはいられない渇望が、本書のなかにはたしかにある。周囲にいる登場人物たちの強烈な自己主張によって霞んでしまっている語り手の感情であるが、そのかすかな感情の残滓が、じつに絶妙な印象深さを読者に残していく。

 本書のなかにはじつにさまざまな愛の形があり、そこには常に人と人との関係があり、さまざまな思惑が渦巻いている。自分以外の誰かを大切に思う気持ちが「愛」であるとするなら、そこに自分の気持ちはどんなふうに絡んでくるのか、何より自分が大切だという気持ちから、本当の愛は見つかるのか――著者は語り手を通して、人間の複雑で奇妙な「愛」の形を模索しているように見える。その果てに、いったいどのような結論を導き出すにいたったのか、ぜひたしかめてほしい。(2010.08.19)

ホームへ