【講談社】
『風の歌を聴け』

村上春樹著 



 私がまだ学生だったころの話をする。その頃、村上春樹という作家の作品がブームだったのかどうかははっきりとしていない。もしかしたら、もう少し前の世代の人たちにとってのブームだったのかもしれないのだが、そうした事情を当時の私が知るよしもなく、ともあれ、私は彼の初期に書いた作品を読む機会にめぐまれた。きっかけはよく覚えていない。所属していた文芸サークルの先輩の誰かから、勧められたのかもしれない。

 私がそのとき読んだ村上春樹の作品のなかで、語り手の「僕」が何気に女の子と知り合い、何気なくセックスにいたる、というシーンに何度か出くわすことがあったが、そのとき私が思ったのは、「そんな簡単に女とセックスできれば苦労はないよな」といったようなことだった。軽蔑しないでもらいたいのだが、私にかぎらす、そして年齢に関係なく、男という生き物は、しょせんは下半身でものを考えるようなところがあるのだ。知識や教養は、そんな下半身の衝動を制御するために身につけるようなものである。ぶっちゃけ、どんな聖人君子も人間であるかぎりは性衝動の悩みからは逃れられないし、そうした衝動をなんとか理屈づけ、あるいはごまかそうといろいろなことを考えたりする。そんなふうに考えると、人間であることの愚かさ、男であるがゆえに幼稚さや馬鹿さ加減も、少しは笑い話として受け流すことができようものである。

 当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
 
――(中略)――そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。

 というわけで、本書『風の歌を聴け』は学生のとき以来、10年以上あいだを空けたうえでの再読ということになる。そして、本書を読んでみてあらためて気がつくのは、その作品世界に漂う死の影としか言いようのない、独特の冷ややかな雰囲気である。

「死の影」と書いたが、べつに語り手である「僕」の周囲が現実の死に満ち溢れている、というわけではないし、語り手自身が死神であるというわけでもない。もっとも、いくつかじつに特徴的な人の死はある。戦中に中国で死んだ叔父、エンパンア・ステート・ビルの屋上から飛び下りた、「僕」が影響を受けたという作家――上記引用文にも、「僕」の三人目の恋人だった女の子が首を吊って死んだという過去がからんでいる。そしてそう考えたとき、おそらくその女の子と重ねたであろう(あるいは恋人以外の女の子のぶんも混じっているのかもしれない)54回のセックスが、ただの数字でしか表わされていないという事実に愕然とすることになる。

 もっとも肉体的でもっとも情感的で、もっとも本能的とさえ言えるセックスを、ただの数字、やった回数でしか表現していないという空虚さ――語り手である「僕」をもっとも特徴づけているのは、そうしたある種の悟ったかのような冷ややかさである。それは見方によっては、どんなハードボイルド小説よりもハードボイルドしているように見えるし、語り手の語る言葉の端々にそうした側面が見え隠れしているのも事実である。そしてじっさいのところ、語り手の周囲には何人かの登場人物が出てくるのだが、彼らと語り手との距離はある一定以上に保たれていて、けっしてそれ以上近づくことはない。

 人と人との関係におけるある種の距離感というのは、ハードボイルド小説においては必須とも言うべき要素のひとつだ。だが、ハードボイルドにおける距離感が、人生において酸いも甘いも噛みしめた中年男性がかもし出す処世術、経験に裏打ちされた渋みをともなうものであるのに対し、本書の語り手の場合、まだ20代はじめという年齢だ。にもかかわらず、まるで人生そのものに対する諦観めいたものさえ感じさせる語り手のかもし出すものが何なのかと言えば、それは「死」そのものということになる。

 上述の引用文における中略部分には、以下のような文章が入る。

 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった。

 文明とは伝達だと幼少の語り手に語った精神科医の言葉を借りるまでもなく、他人に伝えるものが何もない、というのは、ある意味で人間として存在していないのと同義である。生きている人間の書いた小説に何の価値もないと言い切り、「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだ」と語る語り手、言いたいことの半分しか言わないでいるうちに、本当に半分しか言えなくなり、自分のレーゾン・デートゥルを見失ったと思い込み、人が死ぬことは進化だと答える「僕」は、死んでしまった人以上に「死」と近しい場所にいる。

 ではこの語り手にとって――あるいは著者にとって、その近しい場所にある「死」とは何なのか。死は人間にとって未知のものである。だからこそ、人は死を怖れる。誰だってわからないもの、理解不能なものというのは怖い。だが、同時に死とは、誰にでも訪れるものでもある。そういう意味では、死とは万人にとって平等であるとも言える。たとえば、語り手とともに「ジェイズ・バー」で飲む友人の鼠という人物がいる。彼の家は金持ちだ。そして彼は、他ならぬそのことで何らかの鬱屈したものを抱えていたりする。語り手の「僕」は、そんな彼の気持ちはわからないと突き放しつつも、それでもなお話の聞き手として付き合うだけの関係を保とうとする。そんな語り手にとって、人との関係性というものは、「死」という平等性を前提としたものとして成立しているようなところがある。

 彼には友人がいるし、かつては恋人もいた。「ジェイズ・バー」で介抱した小指のない女性とも、最悪の出会いをしたにもかかわらず、それなりにいい関係になっていく。だが、語り手が世界を理解するために手にした「ものさし」は、「死」を基準としていた。人はいずれ必ず死ぬ。その事実の前に、語り手自身もふくめて、人はただ人という以外に何のレーゾン・デートゥルももっていないのだ。

 不思議なことに、語り手を中心にして漂う「死」の雰囲気は、未知のもの、怖いものというよりは、むしろどこか懐かしさを感じさせるようなものがある。人を描くことは、「死」を描くこと――誰もが目をそらしながらも、けっしてそこから逃れられない本質を、あるいは著者はもっとも深い部分で理解しているのかもしれない、と思わせるものが、本書のなかにはたしかにある。(2008.11.28)

ホームへ