【中央公論新社】
『蛇行する川のほとり』

恩田陸著 



 ミステリーなどを読んでいてよく思うのは、物事の真実――とくに、名探偵やそれに順ずる人によって解き明かされる謎の真相というのは、いったん白日のもとにさらされてしまうと、とたんにそれまで身に纏っていたはずの神秘性や怪奇性といった、ある種の魅力のいっさいが失われてしまうということである。それは当然といえば当然のことであるし、また真相と呼ばれるものは、えてして大層なものではないということでもあるのだが、それでもなお、そうしたものが秘められていたからこそ発する独特の雰囲気が、真相解明という無粋な手によって剥ぎ取られてしまうことを惜しいと感じてしまうのは、はたして私だけだろうか。

 子どものころに遊んだ校庭の鉄棒が、大人になってから見たときに、その意想外な低さに驚くように、明かされるべき物事の真実というベクトルとは別に、秘密を秘密のままにしておきたいという心理は、たしかに存在する。とくに本書『蛇行する川のほとり』のような作品を読むと、なおのことそうした思いを強くしてしまう。

 魅力的な女の子には、それぞれ異なる膜がある。――(中略)――香澄さんの膜は特別製だ。きらきらした粒子の入った、エネルギーだけでできた膜。その膜を通すと、香澄さんの内側にあるもの全てが変わって見え、神秘的な光を帯びるのだ。

「ハルジョオン」「ケンタウロス」「サラバンド」の三つの章のほかに、「終章」を加えた構成をとる本書は、ある夏の九日間の出来事を時系列に追ったものではあるが、それぞれの章で語り手が異なっている。「ハルジョオン」の語り手である高校生の蓮見鞠子は、その九日間――「船着場のある家」で行なわれることになった美術部の合宿に胸躍らせている。なにしろ、その家には美術部の上級生である九瀬香澄が住んでいて、そして彼女は鞠子をはじめとする女子生徒たちの憧れの的でもあるのだ。

「ケンタウロス」では香澄の同級生で同じく美術部員でもある斉藤芳野の語りで、そして「サラバンド」では鞠子の友人である真魚子の語りで進行する本書の中心にあるのは、かつて「船着場のある家」で起きたふたつの不幸な死亡事故であり、また今その家を住処としている九瀬香澄その人である。ただし、物語当初において、そうした不吉な要素はあまり見えてこない。校内でも随一の才色兼備なふたり――香澄と芳野が織り成す彩なる世界に、他ならぬ自分が招き入れられたという思いで、鞠子の心は有頂天になっている。

 鞠子というキャラクターが象徴する香澄の秘密は、あくまで芳野という美女と対となることで彩られる甘美な世界であり、それはまさに隠されているがゆえに醸しだされる雰囲気である。そして、それは女の子だからこその憧れの世界であるがゆえに、物語の当初において、鞠子のそんな憧れに不穏な影を投げかけるのは男の子と相場が決まっている。貴島月彦と志摩暁臣――初対面の鞠子に合宿には行くなと言い放つ月彦と、妙にフレンドリーに接してくる暁臣の存在は、最初こそ鞠子の浮かれ気分に水を差す程度のものでしかなかったが、彼らを交えた「船着場のある家」での合宿生活のなかで、このふたりの男の子が、それぞれ香澄の秘密についてまったく異なる思いを抱いていることに気づくことになる。

「船着場のある家」で起きた事故の内容が、香澄の母親の絞殺事件であったこと、その犯人はいまだに捕まっていないこと、それと同時期に、飼っていた犬が行方知れずになり、また暁臣の姉が野外音楽堂から転落死していること、そして香澄はその事件ののち、一度引っ越ししているが、高校生になって再度この町に転校し、あえてあの家に舞い戻っていること――はたしてこの合宿は、演劇祭で使われる舞台背景を仕上げるためのものなのか、それとも他に何か意図があるのか、という鞠子の疑問は、当然のことながら読者の疑問でもあるのだが、ここで重要になってくるのは、本書の中心として収まっているふたつの要素、つまり過去の事件と香澄という少女との関連性だ。

 いったいどれが本当なのだろう。香澄さんたちは、これは楽しい女の子の合宿なのだと言う。私もそう思っている。それは嘘なのだろうか。月彦が言うような、陰謀に満ちた招待なのだろうか。それとも、暁臣から聞いたとおり、香澄さんを独占するための芝居なのか。

 三つの章立て、そして章ごとに入れ替わる語り手――そのたびに、九瀬香澄という少女はそれまでとは違った姿を見せる。語り手たちの知る過去の事故が、あくまでその断片でしかないのと同じように、彼女たちの知る香澄もまた、ある一面をとらえているにすぎない。だが、それでも香澄は彼女たちの憧れの的であり、またある秘密によって深く結びついた仲でありつづけている。そんなノスタルジーめいた思いを考えたときに、物事の真実を知るという行為にどのような意味があるのだろうか、という疑問が生じる。

 本書は過去に起きた殺人事件を扱った物語であるが、謎が解き明かされることへのカタルシスがあるわけではなく、むしろそのことによって何か大切なものが失われてしまったという印象を強く受けるような構成となっている。それまで見えていなかったものが見えてくる――それはちょうど、幼い子どもの魂が成熟した大人のそれへと変貌していくこととつながっている。そうした人としての成長は、楽しいこと、わくわくすることでもあるが、同時にどこか寂しさを感じさせるものでもある。そして私たち人間は、生きている以上、成長せずにはいられない。

 物事の真実を知ること、人として成長すること、そしてそのことへの喜びと悲しみを描いた本書は、はたしてあなたの心にどのような作用をもたらすことになるのだろうか。(2012.01.24)

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