【文芸社】
『風になる日』

武石和子著 



 自分の中にある愛情を惜しみなく与えることができる人というのは、その心が外に大きく開かれている人でもある。だが、外に向かって心を開くには、何より自分の心に正直になる必要がある。自分が何を大切に思い、誰のために生きたいと願い、そのためにこれからどのような気持ちで日々を過ごしていくべきなのか――そうした事柄にはっきりとした決着をつけるのに、頑なな心で接しても何も返ってはこない。

 頑なな心は、常に視点が自分の内側に向きがちであるが、そのために相手の心とすれちがったり、相手の気持ちを思いやることができないまま成長してしまうことほど悲劇的なことはないだろう。最近、教育論などではしきりに「個性」を尊重し、「豊かな想像力」を育てる教育への取り組みがなされつつあるようだが、「個性」がただのわがままに、「豊かな想像力」がただの妄想になってしまっては、本末転倒もいいところだ。真の想像力とは、自分と他人の垣根を越えて、相手の心を自分のことのように思いやれる力に他ならない、ということを、私たちはもっと真剣に考える必要があるのではないだろうか。

 本書『風になる日』は、今はなき父への回想、という形で物語がはじまる。27年前、語り手である健太の家族を突如として襲った、母の死――それまであたり前のように与えられてきた愛の源を断ち切られた父親と、当時はまだ小学生でしかなかった健太が、その愛の欠如ゆえにおおいに戸惑い、お互いにすれ違い、ときには凍りつかせてしまったその関係を、父の死後に見つかった日記をつうじて徐々に氷解させていく様子を素直に表現していった本書は、一見すると、壊れかけていた家族の絆を回復させていく、親子の和解の物語のように見えなくもないのだが、すでに健太自身が二児の父親という立場でこの物語を語っている、ということを考えたとき、息子としてではなく、大切な家族をもつひとりの父親として、かつての父と対等な立場でその気持ちを理解しようとする健太は、あるいはかつて失われてしまった愛について、自分なりの決着をつけるためにこそ語りはじめたのではないか、という気がしてくる。それは、家族の愛を充分に得られていないと思いこんだ健太が、それまで頑なだった自分の心にもう一度目を向け、自分のなかにもたしかにあるはずの愛を再確認するための行為でもある。

 人はその一生において、何度か自分のこれまでの生き方を振りかえらなければならない時期というのを体験する。本書の大部分を占めるのは、かつて妻という愛情を失い、失った愛をどのように補えばいいのかわからないまま、頑なに、しかし懸命に、残された家族のために生きようとしていた父親の姿である。だが、かつて子どもだった健太の知る父親は、一方的に命令を押しつける父親像であり、厳格ではあったが、けっして惜しみなく愛情を与えてくれる存在ではなかった。

 父もまた、その愛を必要としていた人間のひとりであることを健太が知るのは、父の日記を読んでからのことであるが、両親から充分な愛をもらえなかったと思いこんで生きていくのは、大きな不幸だろう。なぜなら、愛情に満腹できなかった人間は、意識するしないにかかわらず、さまざまな形で愛の代用品を得ようともがくからであり、また愛が不足しているという意識から解放されないかぎり、人に惜しみなく愛情を与えることもできないからだ。そこにあるのは、大切にしたいと思う人を前にして、どのように自分の愛を示せばいいのかわからないまま、結果としてお互いが不幸になってしまう可能性さえ秘めた、非常に危うい自尊心であり、自分はしょせんひとりだ、という頑ななプライドである。

 親子という、かけがえのない関係にありながら、心を開いて語り合うことのできないままに過ごしていく、というのは、なんとも悲しいことではないだろうか。しかし、大人になった健太は同時に、ある日を境にして父の様子が変わったことにも気づいている。ここからは、あくまで私の想像でしかないのだが、日記の中で「私にそっくりだ」と書かれていた健太は今、はたして幸せなのだろうか? あるいは彼は今、その問いにはっきりと「イエス」と答えることのできない立場にいるのではないだろうか。

 かつて親から虐待を受けた子どもが人の親になったとき、同じように子どもに暴力を振るってしまうことが多い、という話を聞いたことがある。これはけっして一概に言えることでないことは承知しているが、少なくとも、妻という自分なりの愛を手に入れた健太が、かつてのようにまた突如としてその愛を奪われるのではないか、という不安を抱いているのではないか、と想像することはできる。
 健太にとって、父の日記を読むことが、父との親子関係を復旧し、家族として和解することであることに間違いはないだろうが、同時に、自分が今手にしている、かけがえのないもうひとつの家族を不幸にしないために、自分の中にあるはずの愛を確認し、そして惜しみなく与えようという、かつて愛に飢えていた自分との決別の意味もあったのではないか、と思えてならない。

 惜しみなく与える愛――その究極のかたちが、キリストや仏陀のような聖人であり、あるいはマザー・テレサのような人物であるのだが、言うまでもなく、誰もが聖人になれるわけではない。だが、もし私たちが、自分以外の誰かの心を思いやることができるとすれば、それは父や母、あるいは妻、息子や娘といった、家族しかいないのではないだろうか。そんなことを、本書を読んでふと感じた。(2002.05.02)

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