【講談社】
『ワイルド・スワン』

ユン・チアン著/土屋京子訳 



 あらためてこんなことを語るまでもないと思うが、私は日本人である。ごく普通の家庭に生まれ、両親や親戚たちの愛情をあたりまえのように――時には少々うっとうしいと思えるほど受けて育ち、他の子供たちと同じように学校に通い、スポーツに励んだり、友人と悪ふざけをしたり、恋に落ちたりして過ごした。そして、自分のやりたい学問のために大学に入ることもできたし、今はこうして会社勤めをすることで生活費を稼ぐこともできる。その気になれば、今の会社を辞めて転職することも、あたらめて学問の世界に入ることも、フリーになることも新たな会社を興すことも自由だ。自由である、ということ――自分の責任において成すことのできる自由を行使できる今の環境が、いかに恵まれたものであるかということを、本書『ワイルド・スワン』を読み終えて私はあらためて実感する。この日本という国は、さまざまな問題をかかえており、その以上に人々の心の問題も深刻ではあるが、少なくともこの国では、読むことのできる本が極端に制限されているわけでもなく、海外に行くことができないわけでも、いわれのない事柄で集団リンチにあったり拷問されたりするわけでもないことは確かだ。

 本書に書かれているのは、著者と、著者の母と、そして著者の祖母の三代にわたって続く苦難と戦いの歴史であり、そんな彼女たちの目から見た、中国という国が近現代において陥っていた、混乱と紛争と恐怖に彩られた歴史でもある。多才多芸で教養も身につけていながら、「伝統」や「道徳」の名のもとに踏襲されてきた男尊女卑の思想のために、その才能を活かす機会もなく、本当に好きになった相手と結ばれるために、時代が積み重ねてきた偏見と戦わなければならなかった祖母、女性が男性の所有物であるかのごとく扱われる慣習を憎み、万人が幸せな生活をおくることができるよう社会を築きたい、という情熱から共産党への入党をはたし、同じく革命の使命に燃える父と結婚したものの、真っ正直であるがゆえに家族の愛よりも党の規律を重んじる父と反目し、革命と家族という二律背反に苦しむことになる母、幼少時代こそ共産党幹部の娘として優遇されながら、毛沢東がおのれの権力をさらに絶対的なものとするために打ち立てた「文化大革命」の嵐によって翻弄されつづけることになる著者――毛沢東を神と崇め、中国共産党の生み出す社会主義国家こそが唯一絶対の世界であると、その人格形成の重要な時期である幼少期に叩き込まれた著者が、そのことに疑問を抱き、その呪縛を打ち破り、あくまで客観的な立場で自分たちの国と、自分の家族の身に起こった出来事を振りかえることができるようになるまで、おそらく並大抵のことではなかったであろう。本書を執筆したその背後に、いったいどれだけの時間が流れ、どのような心情の変化があったのかを、想像せずにはいられない。

 弱い者が不当に貶められることのない、誰もが平等にその人権を保障される理想社会を信じて共産党に身を投じ、党のためにすべてを犠牲にして尽くしてきたにもかかわらず、その党の人間によって「階級敵人」のレッテルを貼られ、肉体的にも精神的にも過酷な扱いを受けなければならなくなる、という皮肉――著者も書いているように、争いを好み、それゆえに常に被害妄想にさいなまれていた毛沢東の、およそ個人的な妄想から生み出された文化大革命は、人間の愚かさ、醜さ、弱さをまざまざと思い知らさせてくれる。現実にはいるはずのない敵を私怨だけで生み出し、集団で罵倒し、暴力で抑えつける。人民を無知で従順な羊として飼い慣らすために、あらゆる文化、あらゆる教育を破壊し尽くし、人々の心に人間不信と恐怖を植えつけ、共産党を批判するような言動をすることはもちろんのこと、美しく着飾ったり、人前で物思いにふけったり、悲しい出来事に涙することさえ許されなかった時期が、私の隣の国でつい最近まで続いていた、という事実は戦慄するべきことではあるが、そんななかにあって著者の家族は、何物にも代え難い家族の絆を回復していくことになる。おそらく、文化大革命の弾圧に晒され、これまでの心の支えであった党の存在、つまり毛沢東の存在をついに否定した著者や、著者の両親のなかに最後に残ったものこそが家族愛であったのだろう。そしてそれゆえに、文化大革命のただなかにあって、自分の信じる道を突き進むことができたのだと言える。そういう意味では、本書には人の醜い面ばかりでなく、高潔であたたかな一面もあますことなく表現されているのだ。

 どこかがおかしい、何かが間違っている、だが、誰も何も言おうとしない。あるいは、見て見ぬフリをしている――狂気も日常化してしまえば、もはや狂気でさえなくなってしまうものなのかもしれない。そして私が本書を読んで思うことは、こうした狂気の日常化は、なにも中国にかぎらず、私たちの住むこの日本においてもあちこちに転がっているのではないか、ということである(たとえば、高見広春の『バトル・ロワイアル』の随筆で書いたように)。だが、著者はこのように言う。「偉大な使命もいらない。主義主張もいらない。ただ平穏な人生、何の取り柄がなくても自分だけの人生を生きられれば、それでいい」と。

 著者はけっして、間違っていることを見て見ぬふりをしろ、と言っているわけではない。また、間違っていることは死を覚悟してでも正さなければならない、と主張しているわけでもない。伝えたかったのはただ、かつて中国という国で、本書に書かれたようなことが現実として行なわれていたのだ、ということ――あるいはそれだけだったのかもしれないと、今は思う。私たちは今、自分だけの人生を生きることを許されている。そのことを大いに感謝するべき立場にいるのだ、ということを忘れてはならない。(2000.01.20)

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