【東京創元社】
『邪馬台国はどこですか?』

鯨統一郎著 



 私たちはこれまで、学校の授業で習う日本の、あるいは世界の歴史というものについて、とくに何の疑問を差し挟むこともなく、それが事実なのだという認識で取り組んできた。だがよくよく考えてみれば、今からはるか昔に起こった出来事について、いったい誰が、どのようにしてその事実性をたしかめることができるというのだろう。おそらく、今ほど物事を記録する技術は発達していなかったはずであるし、そもそも文字を読み書きできるということ自体が、昔はごく限られた人たちの特権だったことを考えれば、たとえばある「史書」が残っていたとしても、その内容を丸ごと鵜呑みにしてしまうのは――もちろん、それ以外の手がかりとなるものがほとんどない、ということを考慮したとしても――あまりに危険なことだと言わなければなるまい。それでなくとも、古来から歴史などというものは、時の権力者が自身の正当性を裏づける証拠として利用しようとしてきたものであるのだ。

 歴史学にとって重要なポイントは、そもそも歴史を学ぶことに何の意味があるのか、ということと同時に、その真実性をどうやって検証していくか、ということも含まれるのだが、本書『邪馬台国はどこですか?』で展開されている、それまでの常識を根底から覆すような歴史に対する新解釈の数々を読んでいると、そのあたりの部分が見えてくるような気がする。それはつまり、いかに客観性を求められる史書であっても、人間が書くものである以上、そこには個人的な感情や思惑、そしてその時代に支配的だった道徳や国家思想といったものの影響から逃れるのは難しい、ということであり、もしそうした資料のなかから真実を読み取っていくとすれば、それは人間の理性をもってするしかない、ということである。

「ぼくはいつだって本気さ。君こそこういう言葉を知ってるかい? 『その説がどんなに荒唐無稽に見えようとも、それが事態を最も矛盾なく説明できるのであれば、それが真実だ』」

(「維新が起きたのはなぜですか?」)

 本書は表題作をふくめた6つの短編を収めた作品集、と言ってもいいのだろう。もっとも、その内容が一般的な意味での「短編」としてあつかっていいものかどうか、なんとも微妙なところがあるのだが、それは本書の本質が、物語が進行していく小説というよりも、歴史的事実だとされている事柄への異議申し立てを中心としているからだ。

 ゆえに、それぞれの短編において、舞台も、登場人物も、すべて固定されてしまっている。カウンター席だけの、地下一階にかまえた小さな店に、バーテンダーの松永がいて、その客として私立大学で日本古代史を教えている三谷敦彦教授、その才知溢れる助手である早乙女静香、そしてどうやら在野の研究者らしき宮田六郎。どの短編においても、宮田がある歴史的事実に対して、周囲を仰天されるようなトンデモ説を開示し、それに対して早乙女静香が反論していく、という形の歴史談義が展開していくのだが、その宮田の自説というのが興味深いというか、それまでの定説に対して非常に挑戦的なのだ。

 いわく「ブッダは悟りなんか開いていなかった」。いわく「織田信長はノイローゼで自殺した」。いわく「聖徳太子は架空の人物だった」――本書の面白さは、この宮田の荒唐無稽な自論が、早乙女静香の厳しい攻撃の手をものともせず、逆にそれを裏づけるさまざまな資料やテクストを展開していくことによって、徐々に信憑性をおびていく点に尽きるのだが、では宮田は意図的に論点をぼかしたり、提示する資料を自分に都合のいいように解釈したりといった、一種の話術でみんなをたぶらかそうとしているのかと言えば、けっしてそんなことはない。むしろ、彼はその当時の時代背景や生活習慣といったものを照らし合わせたうえで、それでもなおどうしても解せない疑問点を、ひとりの人間としてごく素朴に提示しているにすぎないことが、本書を読んでいくとわかってくる。それは同時に、私たちが普段、国家やメディアといったところから与えられる情報に対して、いかにそれを鵜呑みにし、疑うこと自体をやめてしまっているか、ということの提示でもあるのだ。

 宮田の基本姿勢は、書かれた史書がそのまますべて真実を伝えているわけではない、というものである。それは、たとえどれだけ権威のある、有名な史書であっても変わらない。だが、同時に過去の歴史を調べるには、その史書にたよる以外にないとも考えている。であるならば、問題となるのは、書かれた資料に対してどの部分が真実で、どの部分がデタラメなものであるのか、ということになるのだが、宮田はまずこの部分を明確にしていくことから自論の説明をはじめるのだ。表題作の「邪馬台国はどこですか?」などは、まさにその典型的な例であるが、それはまるで、殺人事件が起こった場で、探偵が各容疑者から集められた供述について、どれが本当でどれが嘘かを検証するかのような印象さえある。

「文明開化という言葉があるね。――(中略)――でも、もともと開国反対ということで明治維新が起こされたんだろ。なのに新政府が樹立されたとたんに開国政策に浮かれるなんて、不思議だと思わないか?」(同上)

 早乙女静香や三谷敦彦が、それまでの研究によって常識とされてきた歴史学的考察にあくまで充実であろうとするのに対し、宮田が忠実であろうとするのは、人間としての理性である。それは、歴史をとらえるときに、自分たちを取り巻く社会常識という枠にどれだけ縛られているか、ということでもあるのだが、そういう意味では、この対立姿勢は社会常識と理性との対立であり、まさにそれゆえに、本書はまぎれもない歴史ミステリーなのである。

 そしてその結果なにが起こるかといえば、「歴史上の偉人」というベールの裏に隠された、けっして強くも偉大でもない、ちっぽけな人間としての姿である。だが、それはけっして歴史上の人物の品格を貶めるようなものではなく、むしろ宮田の手によって、はじめて彼らはまぎれもないひとりの人間としてあつかわれることを許された、というべきだろう。それは、探偵の手によって犯人があきらかにされ、その結果として殺人事件の被害者が、ただの名もなき「被害者」から人間へと立ち返っていくことと、非常によく似ている。本書を読み終えた人たちは、その等身大の「歴史上の偉人」に対し、きっとある種の親しみを感じることになるに違いない。

 隆慶一郎の『影武者徳川家康』は、そもそも江戸時代を築いた徳川家康が、じつは影武者であったという設定のもとに書かれた小説であるが、その無茶苦茶な設定が極上のエンターテイメントとして完成された大きな要因となった。本書における独自の歴史的考察も、どこまで真実なのかは正直なところかなりの疑問であるが、これが歴史考察という名を借りたミステリーであると考えれば、ひとつの作品としては充分に成功したと考えていいのではないだろうか。(2004.12.05)

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