【PHP研究所】
『なぜ国家は衰亡するのか』

中西輝政著 



 メディアなどで頻繁に使われているのに、その概念がいまひとつ理解しきれないもののひとつとして、「右翼」「左翼」という言葉がある。とくにここ数年はインターネットとの接触が多く、そこでは「ネット右翼」などという新語も出てきていることもあって、最近まで漠然としたイメージでしかとらえることのできなかったところがあるのだが、私が調べたなかでもっとも単純でわかりやすかったのは、国家を考えるさいに「国」と「国民」のどちらに重きを置くのか、という区分である。つまり、「国あっての国民だろう」と考えるのが右翼、逆に「国民あっての国だろう」と考えるのが左翼、という括りだ。

 あたり前のことではあるが、これらのイデオロギーに優劣はないし、どちらが正しくてどちらが間違っているのかという疑問も意味がない。国と国民、より具体的に言うなら公務員と民衆は、国家という体裁を成すためにはどちらも必要不可欠な要素であり、どちらに大きく傾いても国家は健全ではない形に歪んでいくことになる。そしてこれは、あるいは日本固有のものなのかもしれないが、この「右翼」「左翼」の言葉のイメージを追っていくと、本来の「国と国民」という要素から、しだいに「資本家と労働者」という要素へとシフトしていっていることに気づく。

 こうした言葉の変遷を考えたとき、今の日本という国を定義づける土台として経済的な指標が第一に置かれていることの表われであると思えるのは、はたして私だけだろうか。もっと露骨な言い方をするなら、とにかく競争し、その優劣を金を稼ぐ量によって決定する「貨幣万能主義」的な考えがあまりにも浸透しすぎてしまったがゆえに、そもそもの土台としてあるべき「国」のイメージがこのうえなく希薄になってきている、ということである。そしてそのイメージが希薄であればあるほど、その国の未来はますます不透明になり、それが先の見えない閉塞感となって国民の活気を削いでいく――ごく何気なく手にとることになった本書『なぜ国家は衰亡するのか』であるが、そこにはバブル崩壊以降、二十年以上も不景気から脱しきれていない日本の、その根本的な原因について鋭い洞察が書かれていた。

 しかし、いま日本が本当に必要としているのは、そうした改革の「各論」ではなく、「総論」である。そもそもなぜ日本は改革を必要としているのか。未来の日本のあり方を考える「軸」はどこに据えるべきなのか――(中略)――こうした「改革の国家像」がいまこそ正面から語られなければならないのではないか。

 おそらく私をふくめて多くの日本国民たちが感じている先行きの不透明感――年金問題や長引く不況、少子高齢化社会、さらには東日本大震災から派生した原発問題など、数多くの制度上の問題が噴出しているのに、それに対する改善策や解決方法がいっこうに見えてこず、これから先、何を信じて行動すべきなのかまるっきりわからないという今の混迷状態を、国家そのものの衰亡期として位置づけたうえで、そこから再生への可能性を考えていこうとする本書の趣旨は、きわめてラディカルな試みである。なぜなら、それは人間自身に置き換えるなら、誰もができるだけ考えないようにしていた「死」の問題と向き合うかのような、クリティカルなものの見方へと切り込んでいく試みだからに他ならない。

 もっとも、人間にとって「死」とはけっして逃れられないものであるが、国家の衰退については、そこからの再生がありえないわけではない。そして、いったん今の日本の状態を国家としての衰退としてみなすだけの洞察が得られるなら、そこからどのように考え、どう行動するべきかの指針も見えてくる。本書のラディカルさは、人間にとっての「死」を考えるかのような、誰もが無自覚に目を背けてきた視点をあえて自覚し、意識するところにこそある。

 それゆえに本書は、日本は国家として衰亡しつつあるのか、という命題もさることながら、そもそも国が衰退するとはどういうことなのか、そしてそれ以前にあるはずの国家の隆盛とはどういう状態なのかという、ある種の根源的な問いかけを発することを忘れない。それは突きつめれば、国とはそもそも何なのか、というところにまで行き着くスケールのものであるが、そうした命題を私たちが自分の国、とくに日本という国にあてはめて考えていこうとすると、そもそも日本が日本であるための「軸」というべきものが、まるでイメージできないことに気づく。

 戦後日本の国民が、世界に向かって他ならぬ日本人であることを誇ることができたのは、じつのところ経済大国としてのし上がったことだけではないか、という思いが個人的にはある。本来であれば、その文化や伝統、あるいはそこから受け継がれてきた精神的なものなど、誇るべき要素はいくつもあったはずなのに、敗戦という事情はあれ、戦後日本はそうしたもののいっさいを捨ててしまった結果、日本人は日本人でありながら、他ならぬ日本人であることの拠り所を「経済成長」という枠でしか確認できなくなっているのではないか、という主張が本書のなかには隠れている。

 ゆえに、本書で語られる衰退とは、たんに経済的な不況がつづき、国民の経済格差が拡大するといったことだけを指すのではなく、国民が他ならぬ自国の民であることの意義をもちえなくなってきていることであると指摘したうえで、同じ島国であるイギリスの、現在の日本の状況とよく似た二十世紀初頭の歴史や、アメリカや中国といった先進国がかつて体験した国家的衰退とそこからの再生のプロセスを紹介し、アメリカにはアメリカの、中国には中国の国としての活力のありようがたしかにあることを指摘していく。そして、そうした国々との比較として浮き彫りにされる日本という国には、その活力としての「軸」を喪失してしまっていることに、どうしても気づかざるをえなくなる。

「より豊かに、平和でより自由に」ということは、一般的には好ましいことに違いない。しかし、社会や歴史の局面によってその大前提は揺らぐ。すでにわれわれは、より豊かでより自由で平和な社会を徹底的に追求すれば、逆にこの豊かさと自由とを制限し、そしてときには当面の平和も棚上げせざるをえない、という近代文明のパラドックスに気づき始めている。

 個人の自由を究極なまでに追い求めていくとすれば、ごく一部の強者によって個人の財産がことごとく強奪されていくという状況が発生する。ゆえに人間社会においては、自由に多少の制限をかけることで、逆に個人の財産を守るという発想が適応されてきた。そこには、多少の不自由さに目をつぶったほうが、より自由にふるまうことが可能だという理屈がたしかにあるのだが、そうした理屈へといたる問いかけが、今の日本のありようにおいても必要な時期に来ていると言うことができる。

 現在は相対主義の時代であり、それはともすると個人をあらゆる組織や集団、イデオロギーといった、他者と共有するものから切り離し、しょせん相手の考えることと自分のそれとはズレが生じ、根本的にわかりあうことなどできないという極端な個人主義へと走らせる危険性をともなうものでもある。絶対的な価値などこの世にはどこにもなく、人々は常に偏見に満ちた時代を生きているような状態であるが、もういいかげん、先の新たな思想の転換が必要な時期に来ているのではないかという予感が、本書を読むと感じられる。本書ではあくまで国の未来のビジョンという形で、私たち日本人が日本人であることの共有感を問い直していこうとする内容であるが、それは日本にかぎらず、全世界的な問題としても充分に通用するものだ。私たちははたして何者で、これから先をどのようにして生きていくべきなのか――そうしたラディカルな問いかけを、そろそろ本気でやっていかなければならないのではないだろうか。(2012.07.24)

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