【いのちのことば社】
『この子だれの子』

ビル・ウィルソン著/万代栄嗣訳 



 凶悪犯罪の低年齢化、頻発する児童虐待や拉致監禁事件、増加するいっぽうの失業率とホームレス、深刻な問題と化している登校拒否やひきこもり――絶対だと信じることができる価値観が大きくゆらぎ、未来というものにまったく何の展望も希望も描くことができず、この先どうなってしまうのか、という漠然とした不安ばかりがつのる今の世の中に対して、何かがおかしい、どこか狂いはじめている、と感じている人は、けっして少なくはないだろう。だが、そのことを嘆き、政治が悪い、社会が悪い、学校教育が悪いと悪態をつくことはあっても、そうした世の中を少しでも良い方向へ導くために、なんらかの行動を起こしたという人は、いったいどのくらいいるのだろうか。

 人は誰しも自分がかわいいと思うものであり、また具体的な脅威や不幸が自分の身にふりかかるようなことにならないかぎり、どんな深刻な問題も基本的には「他人事」で済ましてしまう、身勝手な生き物でもある。「人ひとりの力など無力だ、できることなどたかが知れているし、何か試みたところで今の世の中は変えられやしない」と言う人もいるだろう。それはたしかに真実かもしれないが、それでもなお、『不登校・引きこもりから奇跡の大逆転』や、『骨太の子育て』、あるいは乃南アサのノンフィクション『ドラマチックチルドレン』で紹介されているように、独自のフリースクールやオープンスクールを開き、子どもたちの未来のために文字どおり身を粉にして活動しつづけている人たちがいるのもたしかである。はたして、彼らと私たちと、いったい何が違っているというのだろう。彼らは聖人でも君子でもない、私たちと同じ、無力なひとりの人間にすぎない、ということを、これらの本はなにより雄弁に物語っているというのに。

 もしあなたの家が火事になり、子供が中に閉じ込められたら、あなたはどうしますか。「主がそうせよと言ってくださるまで、私は中には入りません」と言うのでしょうか。とんでもない! 自分の子供が助けを求めているのですから、あなたはすぐに飛び込んでいくはずです。

 本書『この子だれの子』の著者であるビル・ウィルソンは、ニューヨークのブルックリンを本拠に活動をつづけているキリスト教宣教師である。イエス・キリストの福音を子どもたちに説いてまわるため、教会学校のプログラムにゲームや人形劇、バンド演奏といった楽しいイベントをとりこみ、バスで各地をまわって子どもたちを教会学校へと連れて来る「バス伝道」や、文字どおり子どもたちひとりひとりの家庭を毎週訪れる個人訪問など、既存の概念を打ち破るユニークで妥協のない彼の伝道のスタイルは、これまで誰もが不可能だと思われていた、犯罪都市ニューヨークのスラム街での宣教活動に大きな貢献をはたしつづけているが、彼がキリスト教宣教師であるとか、神の福音を説いているとかいった宗教的側面をまったく無視して考えたとしても、その社会的影響力ははかりしれないものがあると言わなければならないだろう。なぜなら、彼の献身的伝道によって、人としての道を踏み外すことなく、まっとうな社会人として成長していった子どもたちが、確実に存在するからである。

 ニューヨークという都市がどのようなものであるか、という点については、境ケイキの『ニューヨーク底辺物語』でも多少触れられてはいるが、銃が乱射され、強盗殺人が日常茶飯事のように起こり、殺された人間にまずなされることが、そのスニーカーを盗むことであり、麻薬を手に入れるために自分の娘を売り、虐待死させた赤子をゴミ捨て場に遺棄し、しかも、そうした情景があまりにあたり前になりすぎて、誰も何とも思わなくなっている、という現状にも驚かされるが、そんな人としての価値観の崩壊してしまったスラム街の真ん中にあえて居を構え、何度も殺されそうな目にあいながらも、けっしてそこから離れることなく伝道をつづけているビル・ウィルソンをはじめとするメトロ教会の絶え間ない挑戦は、クリスチャンではない人たちにとっても、きっと何か感じるところがあるに違いない。

 ある新興宗教団体がひきおこした忌まわしい事件の数々を思い起こすまでもなく、今の日本にとって神とか救済とかいった、およそ宗教的匂いのするものほど、胡散臭く映るものはないのではないだろうか。本書のなかで著者が何度も語る「神の福音」という言葉も、あるいは一部の読者を不必要に身構えさせてしまうところがあるかもしれない。だが、ひとつだけたしかなのは、著者はたしかに神の福音を説き、キリスト教の伝道に力を注いではいるが、それは宗教界における自分の地位を高めたいとか、少しでも多くの人たちをキリスト教徒として改宗させたい、といった思惑よりも、むしろ今まさに人としての道を踏み外そうとしている子どもたち、親からさえ愛されることもなく、まったく無意味に死んでいってしまう子どもたちをなんとかして救ってやりたい、という止むにやまれぬ衝動に駆られての行為である、という点であろう。著者はそうした衝動自体を「神の思し召し」と受け取っているが、それはたんに彼が敬虔なクリスチャンだからこその言葉であり、じつは上述したフリースクールの開設者たちを突き動かしているものと同等のものだと考えると、私たちにも納得できるものがある。

 私たちの伝道は、すべて予防のためのものです。子供たちの腕に麻薬の針が突き刺さる前に、子供たちの口がお酒の瓶に触れる前に、彼らにも福音を届けたいのです。

 そういう意味で、著者はむやみに神の奇跡とか、神の声がじっさいに聞こえてくるとかいった現象を信じているわけではない。本書を読んでいくと、そうしたことがわかってくる。彼が信じているのは、聖書の言葉の中に子どもたちを正しく導くための指針を見出すように、神は待つ者にではなく、正しいと信じる行動を起こした者にこそ力を貸してくださる、ということであるのだ。そしてその行動は、けっして楽なものではないし、一朝一夕で達成できるたぐいのものではない。だが、そうした彼らの絶え間ない努力の結果として、今の奇跡があることはたしかだ。

 本書を翻訳した万代栄嗣も語っているが、今の日本の都市部は、確実にニューヨーク化への道を突き進んでいる。すでにあちこちでモラル崩壊の兆しが見え始めている現状を、それでも「自分には関係ない」こととして無視しつづけるのか、それとも自分にできる何らかの行動を起こすのか――本書のなかで語られている著者のメッセージは、けっしてキリスト教関係者や、アメリカ人だけのものではないことに、いいかげん私たちは気づく時期に来ているのかもしれない。(2003.11.28)


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