【新潮社】
『ホワイトアウト』

真保裕一著 
 第17回吉川英治文学新人賞受賞作



 以前、ほんの数年だけのことではあるが、私はオートバイを運転していたことがある。なぜバイクに乗ろうと思ったのか、という点について、とくに大それた目的があったわけではなかった。ただ、足になるものがあれば自身の行動範囲が広がるのではないかと思ったこと、しかし今住んでいるところでは自動車をもつだけのスペースがなかったこと、さらに、バイクなら道が渋滞していてもその横をすり抜けていけるのではないか、というけっこう安直な理由だったのを憶えている。

 結果として、私はせっかく買ったバイクを手放すことになるのだが、その最大の理由は自然環境に影響を受けやすいことにあった。バイクは常に風をその身に受け、それゆえに移りゆく季節感を肌で感じることのできる乗り物であるが、それは逆に言えば、暑い日は暑さに、寒い日には寒さに、常にさらされながらの運転を強いられる、ということでもある。さらに、自動車ではたいした影響ではないちょっとした天候の変化も、バイクにはけっこうな重荷になりかねない。バイクに乗っていた期間はけっして長いものではないが、それでもなお、自然の厳しさ、容赦のなさを肌で感じるには充分な時間だったと今では思っている。

 日本の整備された公道を走るだけのバイクに乗っていてさえ、照りつける太陽の日差しにむき出しになった腕の皮膚が焼けてしまったり、冬の寒さに体の芯まで凍えそうになるのであれば、自然の象徴ともいうべき山を登るべく生きる登山家が受ける自然の驚異というのはいかばかりのものであろうか、と思わずにはいられない。人間がその文明とともに発達させてきた科学技術は、たしかに自然の驚異を退け、あるいは自然の力を利用することで私たちの生活を快適にしてきたものではあるが、これまで読んできたいくつもの山岳小説を例にとっても、ひとりの人間の力など――いや、たとえ何人の人間が集まったとしても、なお大自然の力の前に、成すすべもないという事実をありありと思い知らされる。

 自分が戦うべき相手は、武装した侵入者たちではなかった。富樫は今、それをはっきり感じ取っていた。挑むべき相手は、この雪なのだ。奥遠和を白く埋め尽くす深雪だった。

 本書『ホワイトアウト』の物語としての骨子は、日本最大の貯水量を誇るダムを占拠した過激派テロリストと、そこの職員としてダムの運転を担当していたひとりの男との息づまるような攻防戦にあることは間違いない。ダムの占拠と聞いて、あるいはテロリストが狙う対象としては、たとえば原子力発電所や乗客を乗せた旅客機といったものと比べて奇異な感じ、あるいは見劣りするような印象を受ける方もいらっしゃるかもしれないが、そもそも私たちがふだん、あまり関心を寄せることのない対象に目をつけ、その盲点を最大限物語に活用していこうとする姿勢は、著者ならではのものである。

 なぜテロリストは山奥にあるダムを、しかもその行き来が大幅に制限されてしまう厳冬をわざわざ選んで占拠するという手段に出たのか。そしてただの一職員に過ぎない富樫輝男は、なぜたったひとりでテロリストたちと立ち向かうのか? そのあたりの疑問を違和感なく読者に納得させるために、著者はじっさいにテロが勃発するまでのエピソードについて、相当な文章量を費やしている。

 たとえば、テロリストたちの目的がダムの占拠にあるという事実について、著者は何人もの登場人物の視点からその事実を把握させていく、という方法を用いている。素人にはその意味が今ひとつ漠然としており、せいぜい大変なことが起きたという程度の認識でしかなく、それは私たち読者の大半にとっても同様のことであるが、その事実が最終的に、富樫や地元の警察たちといった、ダムの事情をよく知りえる立場の者たちに伝わるにつれて、テロリストたちがたんに発電所の職員を人質にしているだけでなく、その気になれば電気も、そしてダムのふもとに広がる街に住む人たちの命をも握っている、という想像以上に深刻な事態を嫌がうえでも思い知らせてくれることになる。そのあたりの丁寧な物語の作りこみは見事の一言につきる。

 そして本書をよりインパクトのある物語としている最大の要因は、雪山の過酷な自然環境である。冬になれば身長より高い積雪で閉ざされてしまう山奥を、富樫は何度も這いずり回るはめに陥る。ときには寒中水泳まがいのことまでしなければならないときもあったりして、とにかく読んでいるこちら側まで凍えてしまいそうな状況に、富樫は何度も襲われるのである。もちろん、テロリストとの戦いも重要ではあるが、上述の引用にもあるように、富樫にとって最大の敵は、じつはこの冬山の自然にこそある。そしてそれは、ダムを占拠したテロリストたちにとっても同様だ。ただ違いがあるとすれば、テロリストたちが雪によってダムに近づく手段がほとんど閉ざされてしまう状況を逆に利用しようとしたのに対し、富樫のほうは山岳の経験を積んだ山男であり、山の恐ろしさをその身をもって知っている、という点である。

 かつて富樫は、友人の吉岡和志とともに雪山で遭難した登山者の救助に向かったことがあるが、結果として自分の過失のせいでその友人を失うという経験をしている。それは彼のなかに、けっして癒えることのない悔恨を残すことになったが、その吉岡の婚約者だった女性がたまたまダムに向かい、そして今回のダム占拠に巻き込まれたことを知った富樫は、今度こそは、と強く思うのだ。かつて雪山の過酷な自然に怖気づき、そのせいで友人の命を救えなかった自分は、今度こそ彼女を救い出さなければならない、と。そういう意味では、本書の本質はテロリストとの戦いというよりも、むしろひとりの山男のリベンジの物語であり、彼をとりまく自然環境が厳しいものであればあるほど物語は劇的なものとなっていく。

 本書のタイトルである『ホワイトアウト』とは、ガスをまとった雪によって視界が白い闇によって覆われてしまう自然現象のことを指す。本書に登場する人物は、富樫にかぎらず、過去に受けた大きな衝撃によって、まさに未来が闇に閉ざされて先の見えなくなってしまった者たちばかりであるが、そんな彼らの行く先に、どのような決着を用意しているのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2006.10.03)

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