【文藝春秋】
『池袋ウエストゲートパーク』

石田衣良著 



 事件が起こる。誰かが誰かを騙し、誰かが誰かを傷つけ、誰かが何かを奪い、そのために別の誰かが泣き、誰かが蔭でほくそえむ。この世には強いヤツと弱いヤツがいて、弱いヤツはたいてい損をする仕組みになっている。どれだけ政治家がキレイ事を並べても、どれだけ教育者が熱弁を振るっても、どれだけ警察が取り締まりを強化しても、それはあくまで社会的強者の弁であり、彼らが弱者を守ってくれるわけではない。そしてけっきょくのところ、弱肉強食がこの世の現実だとするなら、弱いヤツはなんとかして強くなるしかない。それが武器を持つことなのか、強い仲間を見つけて行動をともにすることなのか、それとも自分よりさらに弱いヤツを踏みにじることなのか、それはわからない。だが、ひとつだけたしかなのは、どう転んでも誰もがハッピー、とはなりそうもない、ということだけだ。

 弱くて、臆病で、馬鹿な人たち――学歴もなく、金もなく、そして未来への希望も見つけることのできない人たちは、それゆえに自分たちの生きる社会が抱えるさまざまな欺瞞や不正に敏感だ。ようするに、この世も自分自身もクソみたいなものでしかない、ということを知っている。だが、彼らだって踏みつけられれば痛いと感じ、ささやかではあるが大事なもの、守りたいと思うものを持っている。本書『池袋ウエストゲートパーク』という作品には、報道などでまるでエイリアンか何かのように描かれがちな「今時の若者」の、生き生きとしたリアルな姿がたしかにある。

 本書は全部で4つの短編から成り、そのいずれもが真島誠、通称「マコト」という10代の少年の一人称で語られる、という形式をとっている。そういう意味では、このマコトが全篇を通しての主人公だと言うこともできるだろう。だが、本書を読み終えて私が抱いた感想は、マコトは物語の主要な登場人物ではあるが、けっして主人公という立場にあるわけではない、というものである。

「池袋ウエストゲートパーク」では、若い女性ばかりを狙うストラングラー(首絞め魔)に友人のリカを殺されたマコトたちが、自分たちの手でその犯人を追いつめていく。「エキサイタブルボーイ」では、マコトは失踪したヤクザの組長の娘の行方を探すことになる。「オアシスの恋人」では、あるカップルを救うために麻薬の売人グループを罠にかけ、「サンシャイン通り内戦」では、池袋を二分しておこなわれるストリートキッズたちの血で血を洗うような抗争をくい止めようと奮闘する。このように書くと、下手をすると警察でさえ二の足を踏むようなトラブルを次々と解決していくマコトなる人物が、まるで凄腕の私立探偵か何かのように思われるかもしれないが、彼はけっして何か特別な能力を持っていたりするわけではない。「ヤー公のファーム」と呼ばれる地元の工業高校をなんとか卒業したものの、進学も就職もせずにブラブラし、はみ出し者の若者や風俗関係者たちが集まってくる池袋西口公園(ウエストゲートパーク)で夜じゅう時間をつぶしている、言ってみれば「ろくでなし」なのだ。

 おれに見つけられるものはすべて池袋の汚れた道のうえか、あの壊れかけのガキどものなかにしかない。しかたない、おれもそのなかのひとりだし、おれが生きているのはこの街なんだから。

 そう、マコトが投げかける一人称の視線は、けっして自身が主人公であると自己主張していない。池袋西一番街という猥雑な空間で生まれ育ち、自身もまた悪ガキどもと無茶なことをやっては何度も警察に補導されたことのある、けっして素行が良いとは言えない少年のひとりであるという自覚を強くもつマコトにとって、池袋という環境――そこで生きる人々や、そこで渦巻いているさまざまな欲望や快楽によって生じる、雑然とした雰囲気は、すべて自分と同等のものなのだ。そして同等のものである、ということは、自分と他人とを比べることによって必然的に生じてくる上下意識といったものとは無縁である、ということでもある。

 武闘派ストリートキッズ「Gボーイズ」のヘッドであるタカシ、アニメ絵ばかり書いているシュン、引きこもりの同級生でひたすら池袋の街を観察しつづけている和範、電波マニアのラジオ、仲間がほしくて暴力団に入ったいじめられっ子のサル――援助交際や引きこもり、麻薬汚染、いじめといった陰湿な問題を抱えながら、それでもその日その日を生きている者たちと、マコトはあくまで対等な、ひとりの人間としてごく自然に接している。そしてこれが本書の大きな特長でもあるのだが、その自然な感じを、まったく違和感なしに文章として表現できているのだ。そこには、報道などで深刻な社会問題として取り上げられるべきテーマが書かれていながら、それが特異なことではなくあくまで自然なこと、マコトにとってはあたりまえの街の風物として捉えられている。ともすると舞城王太郎を思わせるような、一人称によるテンポのいい独特の語り口も、そうした雰囲気づくりに一役買っているのかもしれないが、その語り口に毒があるかないか、という点では、舞城王太郎と本書の著者である石田衣良の作風は大きく異なっている。

 マコトは自分が弱者であることを知っている。だからこそ、彼は自分が大切に思うものを守るために、いろいろな人たちの力を借りているし、そのことを恥ずかしいことだとも思っていない。本書のなかでは、むしろ自分が賢く、力を持っていると思いこんでいるがゆえに、他人を思いやるという想像力が欠けている、表面上は常識人である者たちこそが愚か者として、しかるべき報復を受けることになる。それはいかにも胸のすくような物語の展開であるが、そうしたありがちな展開でさえ、著者の手にかかるとごく自然な流れであるかのように思えてしまうのだから不思議なものだ。

「おれたちはみんな弱い。だから嘘をつくことがある。おれたちはみんな臆病だ。だから武器をもつこともある。おれたちはみんなバカだ。だから傷つけあうこともある。でも、おれたちは許すことができる。誰がついたどんな嘘だって、きっと許せるんだ」

 本書の事件を通じて、マコトは少しずつだが成長していく。そのあたりもまた、辣腕をふるう私立探偵みたいに完成された大人ではない、だが子どもというにはあまりにも成熟している19歳という微妙な年齢だからこそのものだろう。そういう意味で、本書はミステリーであり、クライムノベルでありながら、同時に青春小説だと言うこともできる。

 他人にとってはなんてことのない、どうでもいいようなものであっても、ある種の人たちにとっては、何物にも代えがたい大切なものだったりすることがよくある。その事実をふと思い出させてくれる作品が、つまりは本書ということなのだ。(2003.09.12)

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