【文藝春秋】
『少年計数機』
− 池袋ウエストゲートパーク2 −

石田衣良著 



 この世にはさまざまな境界線というものがある。昼と夜、大人と子ども、都会と地方、国と国とを隔てる国境や、ある組織に属しているか、そうでないかによって生じる差異――文字というものを発明した私たち人間は、この世にあるさまざまなものに名前をつけることによって、混沌とした世界に秩序をもたらしたが、それはある意味、世界にさまざまな境界線をもうける行為だと言うことができるだろう。それが私たちの生活に、より多くの恩恵をもたらしたことはたしかだが、世の中のすべての事象が、人間の生み出した秩序によって定義づけできると考えるのは、人間のおおいなる思いあがりでしかないだろう。

 石田衣良という作家の作品には、そうした人間によって引かれた境界線では計ることのできないものをとらえよう、という鋭い視点が常に感じられる。それは著者の作品が、それだけ時代を先取りしたテーマをとらえている、ということでもあるが、ただそれだけではなく、著者の作品には、読者にそうした境界線の存在そのものについて、深く考えさせるものがあるのだ。善と悪、生と死、平常と狂気、そして犯罪者とそうでない者とのあいだに引かれる境界線――だが、私たちが絶対だと信じていたそれらの境界線は、じつは非常にあいまいで、ちょっとしたはずみで容易に越えられてしまう程度のものでしかない、という危うい雰囲気が、言ってみれば著者の作品におけるひとつの大きな特長だと言える。

 普通ってなんだろう? 普通って、ここでいっしょに座ってる三人や、身障者パーティに通いつめる男たちや、そこで働く女たちのことじゃないんだろうか。――(中略)――おれたちはみんな、普通のありふれた世界に生きている。
 それが実は叫びたくなるくらい異常なことだと知りながらね。

 本書『少年計数機−池袋ウエストゲートパーク2』は、前作『池袋ウエストゲートパーク』の続編にあたる作品であり、前作同様、池袋界隈でおこるいろいろな揉め事と、その揉め事を解決していくマコトたちのストリートライフを描いた作品であるが、今回彼は、池袋西一番街の母親が営む果物屋を手伝う以外に、ストリートファッション誌に連載コラムを書くコラムニストという立場も担っている。前作の顛末を知っている読者であれば、マコトが雑誌に文章を書くという行為にそれほど違和感はないのかもしれないが、学生でもない、かといって会社員でも自営業者でもない、言ってみればこの世界でどのようにも定義しようのない立場にいるはずのマコトが、他ならぬ世界を定義するための活字を使って、猥雑で混沌とした池袋の「今」を書いていく、というのは何とも不思議な感じがする。なぜなら、マコトがかかわることになる事件は、警察やヤクザ、興信所といった「肩書き」をもつ者たちには解決できないものであり、それは池袋のストリート同様、社会的定義から外れているマコトが、まさに「マコト」でしかないからこそ解決できるものであるはずだからである。

 じつを言うと、著者の作品を書評するというのは、私にとってはなかなかに困難な作業でもある。事件が起きて、依頼があって、それを解決する、というストーリーをそのまま紹介してしまうと、とたんにその物語は生彩を失い、なんともつまらないものへと変貌してしまうからだ。おそらく、マコトが書くコラム同様、石田衣良の作品もまた「ストーリーではなくストーリーのズレと言葉の弾みで聞かせる話」に属しているのだろう。それは、人間によるこれまでの言葉の定義ではとらえきれないものを書こうとする著者のテーマ性に関係してくることでもある。

 たとえば、「妖精の庭」ではインターネットの覗き部屋の売れっ子であるアスミにつきまとうストーカーを撃退するという話であるが、そこにあるのは、現実と仮想空間の境界線がきわめて曖昧になった人間の心理というテーマのほかに、その依頼人であるショーが、もともとは女でありながら男として生きている、という性の境界線というテーマも内包している。「少年計数機」では、自分が何者なのかを確認するために、目に見えるあらゆるものを数えつづけるという少年自身が、デジタルとアナログの境界線をあいまいなものとする象徴として登場するが、それは同時に、自分は世界とはまったく関係ないところで生きている、という強烈な理性と、それでもなお世界に影響されずにはいられない人間としての感情との境界線のせめぎあいを描いた作品でもある。「銀十字」については、これまでにない新しい流行や秩序が生まれようとする、境界線のない部分における光と闇があり、そして「水のなかの目」にあるのは、ズバリ生と死の境界線であり、正気と狂気の境目、犯罪者となるか踏みとどまるかの危ういバランスである。

「妖精の庭」のアスミやショーにしろ、「少年計数機」のヒロキにしろ、あるいは「水のなかの目」の荒事師ミナガワにしろ、著者が描く登場人物は、誰もがどこかボーダーレスなところがあり、それゆえに非常に印象深い。こうした登場人物たちの造形の巧みさも本書の特長のひとつであるが、そこにマコトという人物が絡んでくることで、ひとつの秩序が生まれてくる。けっして流暢ではない、しかしまぎれもないマコトの言葉で定義する、という秩序――それはメディア報道のような、対象を無理やり定義づけしてしまうような暴力的な言葉ではなく、対象になんらかの救いをもたらすための言葉である。

 おれのなかの誰かがいった。まだ、すべてをやってはいない。まだ言葉だって十分に使っていない。倒れかけたボクサーを立ち直らせるトレーナーの気合のように、ショーを目覚めさせる言葉がきっとどこかにあるはずだ。びびったやつの心に火を放つ言葉が。

 小説というのは、言葉を用いてあらたな秩序を再構築する行為である。マコトが言葉をもつことによって、自身の世界をどのように再構築していくのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2003.09.17)

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