【新潮社】
『ディスコ探偵水曜日』

舞城王太郎著 

背景色設定:

 私がこれまで読んできたミステリー小説のなかで、人間の構築する論理の限界を明確な形で指摘したのは、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』であり、探偵である矢吹駆は論理の代わりに、フッサールの「本質直観」に基づく現象学的推理を展開していくのだが、そこには、ある事物に対して、ただひとつの意味だけを割り当ててしまうことに対するアンチテーゼがあった。本来であればさまざまな可能性と解釈の仕方があるにもかかわらず、たとえば「首無し死体」が即座に「被害者の隠蔽」というひとつの論理に固定されてしまうと、それ以外の可能性を自動的に排除してしまうことになってしまう。それは極端な例を挙げれば、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを、いっけん筋が通っているという理由だけで信じてしまうこととよく似ている。

 私たちが生きるこの世界に、絶対の論理というものが、はたしてありえるのだろうか。1+1=2という計算は、しかしそのことを証明することの困難さを考えたとき、真理ではなくただの約束事になってしまう。それが論理的だという理由で、誰もが疑いなくそのことを信じているからこその常識であって、もしそれまでに誰も気づかなかった新たな事実が判明したとき、それまでの常識が常識でなくなることなど、過去に何度となく起こってきたことだ。名探偵の推理にしても、もし何かひとつ重要な要素の見落としがあれば、築き上げてきた推理はあっけなく崩れてしまう。神という共通の絶対的価値基準が失われ、個人が個人の信じるところのものを信じるしかないという相対主義の時代において、本書『ディスコ探偵水曜日』というとんでもない作品が登場してきたのは、ある意味必然であったのかもしれない。

「つまり、こういうことにならないか?」と俺は言う。「お前ら名探偵はお前らの強い意志をもって、真相に辿り着いてるんじゃなく、真相を創っているんじゃないのか?」

 迷子探し専門の私立探偵、ディスコ水曜日の一人称によって展開していく本書について、おそらくそのあらすじをそのまま紹介していったとしても、本書の本質をまったく表現することはできないに違いない。なぜなら、この物語を正しく読み解いていくためには、私たち読者があたり前のものとして抱えているあらゆる常識を疑い、一度リセットしなければならないからだ。時間の流れ、固定された空間、重力の影響、世界の形、肉体をもつがゆえの限界――そうした、私たち人類が世界を秩序づけるために発見し、見いだし、しかしそれゆえに私たちを拘束し、自由を奪っているあらゆる常識や法則、共通認識といったものに「なぜ」という疑問を突きつけるという行為を、本書は読者に強要する。

 本書のなかで、ディスコ水曜日は初っ端から不可解で奇天烈な出来事に遭遇する。日本に来て最初の依頼のターゲットであった六歳の山岸梢が、いきなり急成長したかと思うと、自分は十一年後の未来から来た十七歳の梢であると言い出すことからはじまって、そのたびに体から押し出された六歳の梢の意識が彷徨っている場所として、福井県西暁市にあるパインハウスという名の建物を特定するまでのあいだだけでも、「未来の手紙」「水星Cの存在」「膣の中から出てきた四本の中指」「二種類の《パンダ事件》」「《パンダ事件》の被害者である島田桔梗の闖入」といった数々の謎が提示されているのに、そのうえパインハウスではミステリー作家の暗病院終了殺人事件が起こり、その謎を解くために何人もの名探偵たちが推理合戦を展開し、しかも推理を披露するたびにあらたな事実が発覚したあげく、まるで誤った推理を断罪するかのごとく次々と名探偵たちが死んでいくという、なんとも混沌とした状況に陥っているのだ。

 物語の当初において、ディスコ水曜日に与えられているのは、あくまで私立探偵という立ち位置である。あらゆるものを疑いつつ自分の足でストイックに情報を集め、そのなかから本当に知りたい真実だけを追い求めていくというスタイルから連想するのは、ミステリーにおける探偵ではなく、ハードボイルドにおける一匹狼的探偵の姿だ。だが、本書のなかで提示されるさまざまな謎は、彼自身のそれまでの経験の蓄積にこだわっていては、何ひとつ解決しないばかりか、そもそも何が謎なのかというミステリーがミステリーであるための大前提すら見えてこない。だが、六歳の梢の意識を探すために訪れた、彼にとってはアウェーであるはずのパインハウスという空間で、彼は他ならぬ自分がその場に呼ばれていること、そして自分がそこに仕掛けられた謎の真相に辿り着くことを要請されることになる。

 私たちがそれまで抱いてきた常識を疑うことは、けっして簡単なことではない。たとえば、私たちは自分の力で空を飛ぶことはできない。それは、言ってみればあまりにあたり前すぎて疑うことすら考えられないほどの常識だ。だが、本書のなかではそうした常識が、もはや常識として通用しない出来事が次々と起こっている。タイムスリップ、物体移動、肉体から抜け出る意識――それらの要素はいずれも、既存のミステリーの枠をことごとく打ち壊し、ミステリーを成立させなくするものだ。そういう意味で、本書はたとえば西澤保彦の書くミステリーと似たところがあるが、西澤保彦のミステリーが、たとえば超能力や時間跳躍、人格転移といった超常現象を私たちの常識が通用する世界に落とし込むことでミステリーを成立させているのに対し、本書の場合、ミステリーの謎のほうを変質させ、それまでとはまったく違った意味をもたせるという方向にシフトさせたと言える。

 たとえば、もし探偵が自由に時間を跳躍できるとすれば、過去や未来に跳んで事件の真相を見てくることが可能になる。それは、ミステリーとしてはカンニングとも言うべき逸脱行為であるが、本書はそうした現象をすべて「ありうること」として受け入れたうえで、さらにその上のレベルにおける謎とその解答を用意することに成功した。そして、私たち読者にそれまでの常識とは異なる世界の物語である本書を受け入れさせるのに、著者の作品に特有の、脳内思考をそのまま文章にしてしまう手法は、このうえなく有効なものとして機能しているのだ。

 本書のなかで、しばしばディスコ水曜日は「考えろ」と自身に命令する。その命令は、そのまま私たち読者への命令でもある。そして彼が頭のなかで、あるいは言葉に出して展開していく思考は、そのまま私たちの思考として追体験させるためのものでもある。つまり読者は、ディスコ水曜日の思考を通じて本書の世界での出来事をスムーズに受け入れていくのであり、一度はまってしまうと、まるで著者独自のクセのある文体が、まるでこの作品のために生み出されたものであるかのように思えてくるから不思議なものである。

 意志が大事なのだ。この世の根本原理は何をしたいかをはっきりさせ、強く思うことなんだ。――(中略)――強い意志が運命を引き寄せる。意志と運命が揃えば出来事は起こる。つまり願いは叶う。

 それまでのあらゆる常識が覆される世界のなかで、迷子探し専門の探偵であるディスコ水曜日は、大勢の人々の意志に翻弄されながらも、自分が自分であるための本来の意志に立ち返り、そこから本当の物語が出発する。その意志が強ければ強いほど、その力は激流となって、比喩でもなんでもなくまさに世界のあり方そのものを変えていく。こうした、人間の意識への関心というのは、たとえばアダム・ファウアーの『数学的にありえない』のなかでは光速さえ超えるものとして取り上げられているし、コニー・ウィリスの『航路』では、人の意識が死に直面するという強烈な危機感が臨死体験のリアルな世界を生み出していた。本書はミステリーというジャンルをさらに上のステージへと押し上げるために、人間の意識を世界認識のあらたな要素のひとつとして取り込んだ作品として、記念碑的位置づけを獲得することになるに違いない。(2008.10.22)

ホームへ