【新潮社】
『水曜の朝、午前三時』

蓮見圭一著 



 人生において「ベテラン」などというものは存在しない。人生は常に一度きりであり、ゆえに人々はどれだけ年齢を重ねても、常に初心者、スポーツの世界でいうなら、デビュー戦を戦う者として、自身の人生と向き合わなければならない。そして、常にデビュー戦であるのだから、何もかもがうまくいくというわけでもない。成功することもあれば、失敗することもある。むしろ、失敗することのほうが多いのが人生なのかもしれない、などと私は思ったりもするのだが、成功するにしろ、失敗するにしろ、ひとつだけたしかなのは、自らの意思で何かを選択し、挑戦していくという姿勢を示さないかぎり、成功も失敗もありえない、ということである。

 私たちはときに、いろいろなことを後悔するが、何かを実行して後悔するのと、実行しなかったことを後悔するのと、どちらがよりマシなのだろう、と思うことがある。「やらなければよかった」という思いと、「やっておけばよかった」という思い――何かを実行することが裏目に出てしまうことが多く、そのたびに深く後悔することの多かった私としては、前者の後悔だけはなんとしても避けたいという気持ちが強いのだが、最近になってふと思うのは、この「やらなければよかった」という後悔は、もしかしたらまだ人生が今後も長くつづいていくことを前提としているからこその感情なのではないか、ということである。つまり、何かを実行する機会がたくさん残されているからこそ、失敗したことを悔やむことができるのであり、もし人生の残り時間が少ないとわかったとき――それこそ、何をやるにしても成否の判断をつけるだけの時間がなくなったとき、はじめて私も「やっておけばよかった」とそれまでの生き方を後悔することになるのではないだろうか。

 人生は宝探しに似ている、とある人が書いている。――(中略)――宝物である以上、そう簡単に見つけられるものではないかもしれない。でも、金塊はすぐそこに眠っているかもしれないのです。そうと知りながら、どうして掘り起こさずにいられるだろう?

 『水曜の朝、午前三時』という、一風変わったタイトルの本書は、脳腫瘍のために四十五歳で亡くなったある女性が、娘に宛てた四巻のテープの内容を起こしていく、という体裁をとっている。翻訳家であり、わりとよく知られた詩人でもあった女性――四条直美は、誰もが一目を置く才女であり、それゆえに一般的な母親像に収まりきらない部分をもっていて、人によっては近寄りがたい雰囲気を感じさせる女性でもあった。そんな彼女が、自分の死を近い将来のものとして見据えなければならなくなったとき、はたして娘に何を伝えようとしたのか。それが本書の主要なテーマとなっているのは間違いないのだが、ひとつ断っておかなければならないのは、母親がまだ若い娘に宛てたメッセージを中心に展開していく本書であるにもかかわらず、本書のテーマがしみじみと心にしみ込んでくるのは、おそらくある程度以上の年齢の読者――少なくとも社会に出て、いくつもの選択肢を歩み、酸いも甘いも多少なりとも噛みしめてきた人たちだろう、という点である。

 息子や娘にとって、父親や母親というのはあくまで父親であり、母親であって、それ以外の役割をあたえられたひとりの人間だと意識するのは、簡単なようでいて難しいことでもある。たとえば私にも母親がいるが、その母が母になる以前にも、ひとりの女として私たちと同じように人生をおくってきたという理屈は、頭では理解できるものの、それがどのようなものであったのかは、なかなかに想像しがたいものがあるのが事実である。ましてや、本書におけるテープの内容とは、直美が今の夫と結婚する以前に愛していたある男性の話――「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博のコンパニオンをしていたときに出会った、いわば彼女にとっての運命の人のことであり、その思いは今も変わらないと回顧しているのである。そういう意味で、本書の一人称として直美の娘である葉子ではなく、その婚約者となった男が選ばれたのは、ごく自然な流れだと言える。

 私が本書を読み終えてまず思ったのは、直美が吹き込んだ四巻のテープが、いったい何を伝えようとしていたのだろうか、という点だった。死を意識し、残された時間が少ないと実感したときに、伝えておくべき大切なことは、他にもたくさんあるように思えるにもかかわらず、なぜ直美は、自身の回想録を――それも、けっきょくは一緒になることのできなかった男性である臼井との思い出を残そうと思ったのか。最初、それは未練ではないかと思った。物語が進んでいくにつれて、直美の臼井への思いの深さがあきらかになっていく本書であるが、だからこそ「もし彼といっしょになっていたら」という直美の想いは、私にもじゅうぶん理解できるものだからである。

 もうひとつ思ったのは、後悔ではないか、というものである。直美という女性は才女であるがゆえに若いころは自信家でもあり、同時に自分自身にも厳しさを求めるところがあった。愛していながら、なぜ臼井といっしょになることができなかったのか――その理由は、ぜひとも本書を読んでたしかめてほしいところであるが、直美はそれを自身の弱さだと受け取っているふしがある。困難から逃げた、そしてそれゆえに過ちを犯した、と。たしかに後悔もあるだろう。そして未練もあるだろう。だが、同時に彼女は、娘である葉子や夫のことも愛していると述べているのである。

 直美の母親として、そして強い意思をもつひとりの女性として、はたして娘に未練や後悔ととられかねない過去を告白する理由は何なのか。ひとつだけ言えることがあるとすれば、私たちが本書を通じて知ることのできる直美の人生は、まさに宝物を探し求めるような人生だった、ということである。それはけっして平穏とはいえないし、多くの人に迷惑をかける生き方でもあったが、それでもなおその宝物があることに目をそむけて生きていくことに耐えられなかった、才知溢れる直美は、一時期とはいえたしかに駆け抜けるような人生をおくったのである。

 私が先に、まだ若い人が本書の良さを実感するのは難しいと述べたのは、彼らの未来がまだまだやりなおしの効くほど多くの可能性がひらけており、まさに今こそが人生に直面している瞬間だからである。自分の人生におけるさまざまな選択が、はたして良かったのか悪かったのか、あるいは正しかったのか間違っていたのか――それはけっきょくのところ時間が経たなければわからないことであり、それができるのは、失敗や後悔を恐れずに困難な選択を選びとろうとしてきた者だけの特権でもある。いずれにせよ、本書を読み終えた読者はさまざまな理由で、自身のそれまでの人生を振り返ることになるだろう。そして、自分にとっての「水曜の朝、午前三時」は、いつだったのだろう、あるいはいつのことになるのだろう、と思いを馳せることになるという確信がある。(2006.04.05)

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