【新潮社】
『われらが歌う時』

リチャード・パワーズ著/高吉一郎訳 



「鳥と魚は恋に落ちることができる。だけど、愛の巣をどこに築けばいいというのか?」

 本書『われらが歌う時』を書評するのに、無粋な前置きや枕は邪魔なだけだと強く感じた。本書に書かれていることは、まさに上述の引用のなかにすべてが集約されていると言ってもいい。空を飛ぶ鳥と、水中を泳ぐ魚――けっして相容れることのできない者どうしが、仮に恋に落ちることがあったとして、ではふたりは鳥の世界で生きるのか、あるいは魚の世界で生きるのか。単純といえばあまりに単純な命題。だが、たんに「そんなことは不可能だ」と結論づけてしまうには、あまりにも多くの要素がその命題のなかには含まれている。それに対するさまざまな人たちの考え方、さまざまな答え、そこから生まれる反感や対立、それぞれの立場や言い分、あるいは、そもそも鳥と魚は本当に「鳥」と「魚」という二極にしか分類できないのか、なぜ「鳥」と「魚」という分類にとらわれてしまうのか、という疑問もふくめ、本書はこの短い文を肉付けし、系統立て、あらゆる要素を加えてひとつのたしかな世界を生み出すことに成功した。そしてその結果、本書はアメリカで今もなお根深い人種問題、黒人と白人とのあいだにわだかまる問題の象徴として、ある家族のたどった遍歴の物語を、上下巻合わせて千ページにもおよぶ壮大な物語を唄うことになる。

 語り手であるジョゼフは、ドイツからの亡命ユダヤ人である物理学者の父親デイヴィッドと、音楽に魅せられ、声楽家として生きることを望む黒人の母親ディーリアとのあいだに生まれた混血児。彼は兄のジョナ、妹のルースとともに、両親の多大な愛と溢れんばかりの音楽のなかで、幼年時代を過ごした。まだ、州の大部分が異人種同士の婚姻を違法としていた時代――両親は、自分たちの子どもが黒人や白人といった人種の差を超えて生きていくことを望み、そのために家のなかを音楽で満たしたが、ジョナも語り手も、そこから一歩外には、激しい人種差別の嵐が吹き荒れる現実があることを知っていた。

 ジョゼフの視点で物語が進んでいく本書であるが、彼の視点はけっして彼自身の属する現在だけにとどまることはなく、自分たちの子ども時代、さらには自分たちの生まれる前、彼の両親が知り合い、結婚した時代まで自由に時間を遡っていく。まるで、種族による帰属先を失った混血児たちが、まぎれもない自分自身の居場所を求めて漂っていくかのように、過去と現在を行き来するような構成をとる本書で、彼らを常に翻弄する人種の分厚い壁もまた二重写しのように呼応していく。歌の才能をもちながら、黒人であるという理由だけで音楽学校への入学を許されなかったディーリアの過去は、そのままジョナの時代にもくり返されていく。だが、ジョナを拒んだのは肌の色ではなく、父がユダヤ人だからだとデイヴィッドは思いこむ。そういう意味で、三人の子どもたちは、人種と民族によって二重に差別されるマイノリティという立場にある。そして、三人の子どもたちは、成長するにつれてそうした自身の立場を否応なく理解していくことになる。

「あなたたちは特別な種族」であると、ディーリアは子どもたちに教える。「自分がなりたいものには何だってなることができる」とデイヴィッドは語る。だが、彼らを取り囲む環境は、彼らのようなマイノリティにはこのうえなく厳しく、アメリカという国は彼らに、ある特定の人種や民族という枠のなかに属することを強制する。何者にもなれるということは、既存の何者にもなれない、ということに容易にひっくり返る。それは彼らにとって、自分が自分であることの一部を削り取られることに等しい。

 誰にも真似できないような、天使の歌声をもつトリッキーな性格のジョナは、その類まれな才能を武器にボイルストン学園、さらに名門であるジュリアーノ音楽院を卒業し、それまで白人たちによって独占されてきたクラシック音楽の世界に、褐色の肌をもつ天才声楽家として殴りこみをかける。兄ほどの才能には恵まれないものの、血を分けた兄弟であるがゆえに兄の考えること、やろうとしていくことを悟っていくジョゼフは、いっぽうで作曲家という道を求めながらも、いっぽうで兄の野望を支えるピアノ伴奏家として、兄とともに音楽家としての道を歩んでいく。そして、兄以上に音楽の才能に恵まれ、その行く末が空恐ろしいほどであったはずの妹のルースは、家族のなかで人一倍人種問題に敏感であったがゆえに、家族を捨て、音楽を捨てて、過激な活動に身を投じていく。かつて、五人の家族がそろって素晴らしい合唱をおこない、「クレージー引用合戦」をはじめとする、高度な音楽遊びから、豊かな音楽の世界を呼吸するように吸収していった、あまりに小さな、しかしこのうえなく幸福だった家族は、突然のように降って湧いた災難――ディーリアの焼死というショッキングな出来事を機に、バラバラになっていく。

 本書を読んでいくとわかってくるのだが、三人の子どもたちの人生は、当人の意思に関係なく、あらゆることのなかに人種差別の視点が絡み合い、どうしようもない状態になってしまっている。そうした時代背景、その根深い争いの歴史を織り交ぜながら展開していく本書は、肌の違いによる人種問題という、日本人である自分たちにはなかなか想像しづらい問題を、まさに皮膚感覚で理解させようという強い意思の力を感じさせる。なぜ、人種や民族の違いが、この幸福だった家族を壊してしまうのか。なぜ人種や民族の違いは、彼らを放っておいてくれないのか。ある黒人の少年をリンチの末に殺害した白人が、裁判で無罪となるばかりか、そのときの様子を武勇伝を語るがごとく記事に載せた白人たちの、あまりにも理不尽なその結果に戦慄し、母親の事故死にさえ種族間の争いが絡んでいるのではないか、という疑いを拭い去ることのできないルースの苦悩は、彼らのかつての幸せを知るがゆえに、やはり理不尽さをいだかずにはいられない。

 そんな彼ら家族にとって、音楽とは、歌を唄うことは、どういうことだったのか、という疑問がある。私たちが唄いたいときに唄いたい歌を唄いたいように唄うという自由――ディーリアはその自由を子どもたちに託し、しかしルースは音楽そのものを捨て、才能がありながら「ニグロ歌手」として見られてしまうジョナもまた、そんなあたりまえのようにあるはずの自由をなかなか謳歌できない。アメリカ全土に広がっていく黒人解放運動の嵐、黒人と白人の衝突、日本に落とされた二発の原子爆弾と、その開発に手を貸したユダヤ人物理学者たち。大きな時代のうねりに飲み込まれた混血の子どもたちは、ことあるごとに「なぜ」という問いを発する。なぜ自分たちはこうなのか。そしてその問いは、言葉ではなく、ある過去の一点へと向かっていく。子どもたちだけではない、デイヴィッドとディーリアも、そして彼女の父や母も、すべての原点であるあの一点へと収束する。

 それは、「鳥と魚はなぜ恋に落ちたのか」というひとつの疑問だ。

 アメリカにおける人種問題は、今もなお根深いものがある。だが、少なくとも今という時代において、人種差別は「人間は肌の色に関係なく平等だ」という大前提なしに語ることができない、という事実がある。そして、その大前提が大前提でなかった時代が、ほんの数十年前までアメリカという国を支配していた。そういう意味で、語り手たちの世界は変わったと言うことができる。異人種への憎しみが遺伝子レベルのものであるかのごとく、身にこびりついてどうしても拭い去れない肉親との確執、同じ土俵に立っていないがゆえの悲劇――自分たちの帰属先を求めて世界を彷徨い続けることになった語り手たちが、最後にどこにたどり着くことになるのか、そして両親はなぜ恋に落ち、その先にどのような未来を確信していたのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.09.23)

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