【双葉社】
『ぼくたちは大人になる』

佐川光晴著 



 今回紹介する本書『ぼくたちは大人になる』は、高校三年になった少年の一年間を書いた青春小説であるが、この作品を読むとどうしても自分の高校時代を振り返らざるを得なくなる。

 当時、それなりに勉強のできた私は、県内でも有数の進学校に入学したのだが、それで高校生活を思う存分満喫できたかどうかと問われれば、どちらかといえばあまりパッとしない高校生活だったと自分でも思ってしまう。長年同じ学校で連れ添った友人たちと別れて、あらためて友人関係を築いていかなければならなかったり、といった理由はいろいろと思いつくのだが、その最大の要因は、やはり私のなかで大学受験という先のことを見据えていたからだろう。もちろん、それはそれでひとつの目標であることに違いはないし、個人的にやりたいこともあるにはあったのだが、それでも、長い人生におけるたった三年しかない高校生活を、たとえばそのときにしかできないことにもっと積極的にとりくんでも良かったのではないか、と思わなくもないのだ。なぜなら、その時期ならまだ何かにしくじっても許されるし、またやり直しもきくということが、今になって身に染みて実感できるからである。

 だが、常に先のほうを見つめ、今という時間を生き急いでいる若い人の心には、そうしたものの見方で自分を含めた周囲を見据えることは難しい。ある意味で、当時の私には「今」しかなかった。まだやりなおしがきく、などといったことは、世迷いごとでしかなかったのだ。

「あんたは、まだ、本当にはしくじったことがないだろう」――(中略)――「若いんだし、それはいい。しかし、しくじるべきときに、きちんとしくじれるのかどうか。もっとも、しくじる手前までもいけないやつが大半だがね」

 本書に登場する宮本達大は高校三年、成績は優秀で学年でもトップクラス、サッカー部のレギュラーも努め、おまけにルックスもそこそこ良いという非の打ち所のない高校生であり、超難関と言われる国公立大学の医学部への進学を目指している。彼の両親は、彼が中学のときにそれぞれ愛人をつくって離婚、達大は母親とともに茅ヶ崎に引っ越してきたという経緯があったのだが、どちらも仕事を第一とし、子どものことはなかば放りっぱなしという環境で育った達大の心には、一刻も早く家を出て自立したいという思いがあった。

 不埒で無責任な両親のようにはぜったいにならない――そうしたある種の潔癖さは、この手の高校生にはいかにもありがちな心のありようなのだが、担任の清水やクラスの副委員長になった土屋佐保子には、そんな彼の姿がいかにも肩肘の張った、余裕のないもののように映る。じっさい、清水先生は数学の能力は並はずれて高いものの、クラスの出欠をクラス委員にまかせたりするようなズボラな性格だし、土屋は土屋で表向きはしっかり者の女子高生という様子だが、担任がなかば黙認するのをいいことに、廃部になった部室で喫煙するような一面を見せる。

 前述したように、本書はある高校生の青春を扱った作品であるが、その中心にあって物語を動かしていくのは、達大がしでかしたある過ちである。それは、清水先生が土屋の校内での喫煙を公認しているという匿名FAXを流すというもので、それは言ってしまえば達大の被害妄想的な気持ちが高ぶったがゆえの行為だったのだが、その行為が現実のものとしてふたりを窮地に陥れる段階となって、彼は突如、学年主任の前で土屋の煙草を呑みこむという暴挙に出る。

 こうしてあらすじを書いていても充分に伝わってくるだろうと思うのだが、宮本達大の言動はおよそ首尾一貫したものではなく、そのときそのときの衝動で動いているようなところがある。だが、それが彼という人間のすべてというわけではなく、ふだんはむしろクールな性格で、ときには教師や大人に対してさえきわめて論理的な反論を返したりするような少年でもある。体つきも、そして理性の部分でもじゅうぶん大人として通用するものがあるにもかかわらず、一時の感情で後先も考えないまま突き進んでいくという、きわめて幼稚な部分も併せ持つというのは、思春期の少年少女を定義づけるひとつの典型だ。そうした不安定な少年の心の動きをきちんととらえていこうとする動きが、本書のなかにはある。そして、その最たるものとして、のちに「タバコ一気喰い事件」と呼ばれる彼の一連の行動がある。

 ただ、それと同じくらい、きみがきみのしたことをどう考えていくのかってことも気になってるんだ。――(中略)――あんなことをした宮本が、これから先どんな人生を選んで、そうして月日を送るなかで、いつあのことに立ち戻らざるをえなくなるんだろうってことが、気になって仕方ないんだ。

 宮本達大にとっての「タバコ一気喰い事件」は、事情を知らない生徒たちのあいだで達大を英雄扱いしてしまったという意味でも予想外の出来事でもあるのだが、それ以上に彼を戸惑わせ、わだかまりを解くことができないでいる原因として、なぜ自分があんな過ちを犯してしまったのか、自分でもよくわかっていない、というものがある。なぜなら、一人前の大人というものは、自分の言動にかんして責任を負うものであることを知っているからだ。一刻も早く大人になりたいと願っている達大にとって、自分の行動原理に説明がつけられない、というのは、ある意味で「不埒で無責任な両親」と同じだと認めることになりかねない。だからこそ、彼にとって「タバコ一気喰い事件」は、けっして無視できない問題として後々まで引きずることになるし、その事件が物語の中心たりえるのである。

 子どもというのは、本来弱い立場の者である。それゆえに、彼らは誰かの庇護を必要とする。大人としては未成熟だと判断されるのだから、たとえ犯罪をおかしたとしても、罪に問われることはない。大人より間違いなく弱い立場にある者を、大人と同じ尺度ではかるべきではないのだ。子どもはいろいろな制限を受けて不自由な身ではあるが、ある程度の過ちも許してもらえるという意味で、じつはこのうえなく自由な身分でもある。子どもでいることの幸せというのは、子どもであるがゆえの自由を思う存分行使できる、ということでもある。

 宮本達大の家庭環境は、彼をごく普通の子ども――親に甘えることを当然の権利として行使する子どもであることを許してはくれないものだった。にもかかわらず、彼は少しでも早く大人になろうと、なかばなりふりかわまず突き進んでいこうとする。本書はたしかに思春期の少年の青春小説であるが、同時に等身大の自分自身を見つめなおし、そのことで大人としての一歩を踏み出していく小説とも言うことができる。受験勉強に追われる日々のなかで、はぐくまれていく友情や恋愛感情、ずる賢い大人の世界のなかで垣間見える理不尽さ――そうしたものに翻弄されながら、多くの大人や友人の庇護の下に、危なっかしくも着実に大人への道を歩んでいく少年の姿を、ぜひその目に焼きつけてほしい。(2009.07.25)

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