【新潮社】
『ウォーターランド』

グレアム・スウィフト著/真野泰訳 



 私が高校生のときに、歴史の選択科目としてとっていたのは「世界史」だったが、その世界史の授業は、たとえば中国なら中国、ローマならローマ、インドならインドといった、あくまである一定の地域における歴史の流れ――おもに王朝の盛衰について――を年代順に追っていき、その時代に活躍した歴史上の人物や事件、文化などを習う、という形で進められていた。もちろん、世界史というとてつもなく範囲の大きな科目の内容を、効率よく生徒たちに教えていくためには、この方式がもっとも都合がよかったのだろうことは理解できるのだが、よくよく考えてみれば、ある地域における歴史は、けっしてその枠の中だけで完結しているわけではなく、大なり小なり国や地域をまたがって影響をおよぼしあっているものである。

 そのいちばん有名な例は、西欧史に出てくるゲルマン民族の大移動だろう。これは、西欧史というくくりで見ると、中央アジアからフン族が西進してきたのがきっかけとなって発生し、その結果として当時東西に分裂していたローマのうち、西ローマ帝国を滅ぼすことになった、というものであるのだが、この事件を中国史から見ると、フン族は匈奴という遊牧民族へと名称を変える。匈奴は当時の漢王朝としばしばぶつかり、最終的には漢に破れ、逃れるようにして西へと移動していった、ということになっている。私が高校のときに習った、なじみのある歴史の授業の方式は、年代を追って事実を記す「編年体」という歴史記述方式によく似ているが、こうした方式とは別に、たとえばなぜ西ローマ帝国は滅びたのか、ということをメインに、その因果関係を追っていくという歴史のたどり方もあり、これは「紀事本末体」と呼ばれている。

 ある事件が発生し、それがどのような経緯をへてどんな結果をまねいたのか――「紀事本末体」という歴史叙述には、たとえばシャーロック・ホームズの時代にイギリスに留学していた夏目漱石が登場したり、邪馬台国の卑弥呼と三国志の曹操が結びついたりといった意外性の面白さもさることながら、事件が起こり、探偵役の人物が情報を集め、最後に事件の真相をあきらかにする、というミステリー的な要素と非常に似通った部分がある。そう、歴史というものを年代ではなく、因果関係でとらえたとき、そこには無数の物語が誕生することになる。だがそれは、際限なくつづいていく壮大な、そしてきりのない物語だ。

 私はつねづね君たちにむかって、<なぜ>を問う欲求の重荷を引きうけよ、と教えてきた。この問いは、どこまでいってもきりがないのだと教えてきた。なぜなら――(中略)――歴史とは、そもそも不完全な知識に基づいて企てられた行いを、こちらも不完全な知識に基づいて説明しようとする、成功の見込みのない試みなのである。

 本書『ウォーターランド』という、無数の物語の集合体、あるいは一種の歴史書ともいえるこの作品をどのようにとらえるべきなのか、説明するのは難しい。あるいは一度読んだだけでは、その全容を把握するのは困難かもしれない。なぜなら本書のなかに書かれている物語は、時系列を無視していくつもの流れに分岐し、わき道にそれたり、何度も時間を飛び越えて行ったり来たりするからだ。だが、ひとつの作品を編年体のようにとらえるのではなく、あくまで因果関係でとらえる紀事本末体として読み解いてみると、本書を形づくる物語の大きな骨格は、おもにふたつの事件から成り立っていることが見えてくる。

 ひとつは1943年7月に、イングランド東部に広がるフェンズ(沼沢地帯)で起こったある少年の死にまつわる物語、もうひとつは時代が下って1980年代、歴史教師である語り手の妻が起こした嬰児誘拐事件にまつわる物語である。年代でとらえるならば、後者は現代、前者は過去に属するものであり、また前者は後者の語り手である歴史教師トム・クリックの語る過去の出来事、つまり自身の故郷にまつわる物語でもある。

 物語の流れとしては、メインとなるのは嬰児誘拐事件だろう。なぜトムの妻がそんな事件を起こしたのか、彼と妻とのあいだに何があったのか――じっさい、この事件が決定打となって、トムは長年勤めていた学校を早期退職させられることになるのだが、その真相を説明する代わりに、彼は物語の語り手となって、教え子たちに自身の故郷のこと、過去の思い出のことを物語る。川と水路にかこまれた低湿地帯、肥沃な泥炭を形成するが、同時に河口を狭めて流れを停滞させ、常に大水の危険性をはらんでいる干拓地で、代々水門番をしていたトム・クリックの父親が、ほかならぬその水門で発見した少年フレディ・パーの死体は、たいした調査もされないまま事故死として片付けられたが、まだ少年だったトムは、それが誰かの手で殺害されたことを確信していた。そしてそれは、彼と、彼の恋人で今は妻となったメアリ、そして彼の兄で生まれつき頭の弱かったディックとの複雑な関係に由来するものであったのだ。

 いっけんすると、まったく何のつながりもないように思えるふたつの事件であるが、妻メアリの嬰児誘拐事件を結果、過去に起こったフレディ・パーの事故死を原因としてとらえたとき、本書のなかでえんえんと語られる無数の物語、無数の歴史、あるいは薀蓄ともいうべきちょっとしたエピソードの数々が、大なり小なりこのふたつの事件をひとつの流れとして結びつけるために機能していることがわかってくる。たとえば、当時のトムが発見した一本の空のビール瓶。トムはこの瓶がフレディ・パーを殺害した直接の凶器であることを確信するが、その「アトキンソン・ギルジー」と銘打たれた、今ではもうどこもつくっていない銘柄のビール瓶がなぜ凶器となったのかを説明するためには、そのビールと犯人との接点、そのビールがつくられた歴史の経緯、しいてはビール醸造業者としてフェンズに君臨したアトキンソン家の歴史、そしてそのアトキンソン家の先祖がやってきたフェンズそのものの歴史と、際限なく過去をさかのぼっていく必要がある。逆に、そうすることによって、本書のふたりの事件は強く結びつき、しいては嘘偽りのない、正確な事件の真相が明らかになっていくのである。

 いったい、どこまで過去をさかのぼれば、何かを説明しきったと言えるのか――この命題は、たとえばミステリーにおける「犯人は誰か」「どのように犯行がおこなわれたのか」という部分ではなく、「なぜ犯人は犯罪を犯したのか」という動機の部分に相当するものである。だが、この動機を追求していくことの難しさは、ミステリーになじみのない人でも想像することはできると思う。それはあたかも、ゲルマン民族の大移動の理由を説明するために、過去の中国王朝の成り立ちまで説明しなければならないのと同じくらい、際限のないものなのだ。その際限のない説明を、歴史という形を物語に結びつけることによって行なおうとした本書は、たしかに圧倒的な存在感を放っている。そこにはたしかに世界があり、人間が存在し、そしてそれぞれの生活が息づいている。

 子供たちよ、好奇心を失うな。――(中略)――好奇心は愛を生む。それはわれわれをこの世界と結婚させる。それはわれわれが住む、このどうしようもない惑星に対する、われわれの倒錯的で衝動的な愛の一部なのだ。

 歴史とはまぎれもない私たち人間の生み出した産物である。それはある意味、人間のどうしようもない愚かしさの記録であるが、同時に私たちがたしかにこの世界で生きたということの証明でもある。ひとつの物語が歴史と、そして名も知れぬ小さな人々の生活と結びついていくさまを、ぜひとも味わってもらいたい。(2004.04.11)

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