【文藝春秋】
『ウォッチャーズ』

ディーン.R.クーンツ著/松本剛史訳 



 たとえば、自分にとって大多数の人間の命など、毛ほどの価値もないものであるのと同様に、自分の命もまた、大多数の人間にとっては何の価値もないものである、という認識――それは、たしかに真実の一部を指し示すものであるかもしれないが、そんなつまらない、あるいは残酷な真実を認めることが、ひとりの人間として充実した人生をおくることにつながるとは限らない、というのも、またひとつの真実であることを私たちは知っている。自我をもって生きることを宿命づけられた私たち人間は、その宿命ゆえにまぎれもない自分自身の存在に、何か特別な意味をもたせたいという欲求から逃れることはできない。そしてその欲求は、ときに人間を愚かな行為へと走らせることもあるが、逆に人間の生きるための原動力にもなりうるという側面ももちあわせている。

 生まれたての赤ん坊は、自分ではほとんど何もできない無力な存在であるが、無力で無知であるがゆえに、同時に無垢でもある。たとえ、相手がどれだけ残酷無比な極悪人であっても、彼にその全存在を無条件に預けることができる。およそ人間に限らず、あらゆる動物の赤ん坊の容姿にある種の愛らしさがあるのは、相手の庇護欲をかきたてて自身の生存率を高めるための生物学的戦術である、という意見があるが、その庇護欲の根底にあるのは、赤ん坊がもつ純粋な心に対する感銘、つまり、自分がこの赤ん坊に信頼されている、愛されているという思いにほかならない。もし自分の腕の中にある赤ん坊が、自分に対して「この人は自分を地面に落とすのではないか」という不審の目で見つめているのがわかったなら、はたして私たちは赤ん坊に対して、今ほどの愛らしさを感じるだろうか。そう考えると、自分以外の誰かを特別な存在として愛するという心は、なんと偉大な心理だろうかと思わずにはいられない。

「花をつけるのは……変わるのは、ほんとうにむずかしかったわ。たとえ変わりたいと思っても、世界のなによりそれを望んでいたとしても、むずかしいのよ。変わろうと思うだけでは足りない。絶望でもだめ……愛がないと、だめなの」

 本書『ウォッチャーズ』に登場するトラヴィス・コーネルは、サンタバーバラで隠者のように人との接触を避け、孤独な生活をつづけている中年男性だが、三十六歳の誕生日に訪れたサンティアゴ・キャニオンの森で一匹の犬と出会う。その薄汚れたゴールデン・レトリーヴァーは、野良犬としてはあまりにも人間になついている様子だったが、同時に何かにひどくおびえているようにも見えた。そして、なぜか先へ行こうとするコーネルの行く手をさえぎり、しきりに引き返すべきだという素振りを示した。何か、この犬をおびえさせるような、きわめて危険な存在がこの先にいる――本能的にそのことをさとったコーネルは、なりゆきでこの犬とともにその場を離れることになるが、彼はしだいにこの犬の高い知性の片鱗に気がつくようになる……。

 まるでコーネルの話す言葉を理解しているかのように、車のボックスの蓋や冷蔵庫のドアを開け、中にあるものを取り出したり、熱すぎるお湯の中に自分で蛇口をひねり、水を足したりするこのゴールデン・レトリーヴァーは、はたして何者なのか。そして彼がおびえているもうひとつの存在とは? 物語はコーネルを中心とするものだけでなく、後に彼やその犬と密接なかかわりをもつようになるノーラ・デヴォンや、不死に関する狂気じみた信仰をもつ殺し屋のヴィンセント・ナスコ、さらには国家安全保障局に属するレミュエル・ジョンソンといった人物がそれぞれに動いており、コーネルによって「アインシュタイン」と名づけられたこの異質なゴールデン・レトリーヴァーをめぐって絡んでくるような構成となっている。読者は本書を読み進めていくことで、物語の中心にいる「アインシュタイン」がどのような素性の犬であるかを知ることができるのだが、本書において重要となってくるのは、その犬の正体ではない。

 じっさいのところ、「アインシュタイン」が高い知性を得るようになった背景にあるのは、SFとしてはよくある設定であり、そこにしかけられた謎そのものに大きな魅力があるわけではない。だが、それ以上に本書が感動的なのは、まさに人間の良きパートナーとしてともに生きつづけてきた犬という種族が、その忠誠心や飼い主に対していだく無償の信頼といった性質はそのままに、人間と対話できるだけの知能を得たことによって、それにかかわる人々にもたらす変化にこそある。

 コーネルは過去に両親や兄弟、妻などをことごとく亡くしており、それゆえに自分が親しくしたいと願う人々がみんな死んでしまうのではないか、という迷信じみた妄執をいだいていた。またノーラは、長年による伯母との生活によってひとりの人格としての成長を大きく阻害され、外の人々に対して際限のない疑惑と、自分に対する底なしの不信感を植え込まれ、それゆえに苦しんでいた。つまり、ふたりは人生というものに対して絶望していたことになるのだが、そんなふたりを引き合わせ、その絶望から一歩踏み出すことをうながしたのは、「アインシュタイン」の犬としての献身、彼が人間たちに抱く愛情である。一度自分が認めた者を、犬はけっして裏切ったりはしない――その不変の心は、利己心と欺瞞に溢れる私たち人間社会のおいて、このうえない救いとしてコーネルやノーラを、さらには「アインシュタイン」にかかわることになる人々を変えていかずにはいられない。

 何らかの動物を飼ったことのある人であれば、そのペットと意思の疎通ができたら、と一度は思ったことがあるに違いない。そして一度、それらと意思の疎通ができるようになったとしたら、そこにはもう飼い主とペットという関係は成立しなくなる。家族の一員、親友、いや、あるいはそれ以上の深い関係さえも築けることになるかもしれない。本書のなかでコーネルとノーラは、「アインシュタイン」と意思の疎通をはかるために熱心にいろいろな方法を模索し、その模索が進むにつれて、「アインシュタイン」への愛情の深さも増していく様子が書かれているが、そこには知性をもったがゆえに自然界のサイクルから切り離され、進化の袋小路に入り込んでしまった人類の、あらたな可能性があると考えるのは、はたして私だけだろうか。

 人間以外の生き物が、人間並みの知性をもつようになる物語は、たとえばダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』や井上剛の『マーブル騒動記』などいくつもあるが、本書の場合、人間の科学技術の光と影という側面を「アインシュタイン」ともう一匹の怪物という構図で象徴しており、その対立構造は人間の心がもつ善悪という形で、「アインシュタイン」をめぐる人々の関係にも反映されている。そういう意味では、本書は人間ドラマとしても読み応えのある物語として成立していると言ってもいいだろう。(2006.05.31)

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