【新潮社】
『別れてのちの恋歌』

高橋治著 



 かつて、松本サリン事件が起こった当初、その近くに住んでいたある人物が有力な容疑者としてマスコミに取り上げられたことをご存知だろうか。結果としてその人は事件とはまったくの無関係であったことが明らかになったわけだが、当初マスコミはこぞって、まるで彼が犯人であるかのごとく報道し、それを観ていた全国の視聴者が、その情報を深く吟味することもなく、うのみにしてしまった。

 真実は常にその人の心の中にしかなく、人に他人の心を読みとる能力がない以上、人はどうしても一個人の発する言葉よりも、周囲がそうだと信じ込んでいる多数意見のほうを信用してしまいがちである。その噂が衝撃的なものであれば、なおさらだ。そして、この世界にあるあらゆる事物と同じように、個人の名誉と信用もまた、壊すのはたやすく、取り戻すのは恐ろしく難しい。

 壊れた名誉、着せられた汚名――本書『別れてのちの恋歌』は、自身の身の潔白を証明してみせるために、十二年という長きにわたって張りつづけてきた壮大な意地を描いた男の物語であり、同じく十二年という長きにわたって約束を果たすことにすべてを捧げつづけた女の物語でもある。

「――課長さんの十三回忌がすんだら、俺、必ずその年の脇岬の祇園祭の晩に、島に戻ります」

 不倫という名の汚名を負わされた信次は、同じくその汚名を受けて夫である桑岡正人の家から絶縁を突きつけられた万沙子にそう告げて、故郷である長崎の港町、脇岬から去った。それは、夫の転勤にともなって、夫の生まれ故郷にやってきた万沙子を待ち受けていた、大きな悲劇の結果でもあった。当時、鉱山の警備課長だった正人の落盤事故死、そしてそれとちょうど同じ時間に、万沙子が家に若い坑夫だった信次を引き入れていたという事実――それは、誰がどう見ても、不倫をしていると思われても仕方のない、最悪の状況であった。

 ところで、万沙子と信次が十二年前に、本当に不倫関係にあったのかどうか? 本書の中にその真実は書かれてはいない。ただ、その町で行なわれている祇園祭の主役として、ただひたむきに太鼓を打ち続ける信次の姿に、万沙子はたしかに自分の胸が高鳴るのを覚えた。そして驚くことに、本書に書かれている祭のリアルな描写が、それを読む人の心にも祭の昂揚感とも言うべき気持ちを引き起こす。むっとするような人いきれ、照りつける陽光、飛び散る汗、怒号や喧騒、そして一心不乱に打ち鳴らされる、危険な間を含んだ太鼓の音――けっして冗長になることなく、また変に感情的に書き散らされることもなく、適度な緊張をたたえたまま進行していく長崎脇岬の祭は、いつしか読者を祭の中に引き込んでしまう力に満ちている。

 万沙子があのとき感じた昂揚感は、はたして祭の熱気にあてられてのことだったのか、それとも信次の男としての姿に惹かれたせいなのか――不倫の真偽も含めて、それは実は重要なことではない。本当に重要な本書のテーマは、「忍耐」とひと言に尽きる。実際、信次は太鼓打ちの仲間全員の顔に泥を塗ったとして、十年の所払い、つまり故郷への出入りの禁止を言い渡されるのだが、信次は言い訳ひとつ口にせずにその決定を受け入れる。そして、万沙子との約束を果たすために、けっして女に溺れたり身を固めたりすることなく、よそ者の漁師として根無し草の生活をひたすら耐えつづけることになる。また万沙子のほうも、正人の家へはもちろん、自分の両親の元へも戻ることができず、たったひとり、誰の後ろ盾も持たず、また男に依存することなく、自立して生きていくことを決意する。その十二年を耐え忍ぶことができたのは、もちろん信次との約束があったから、ということもあるかもしれない。だがそれ以上に、あのときの出来事は誤解なのだということを証明するために、自らに課した「喪の期間」であったから、というのがより真実に近いのではないかと私は思うのだ。

 本書の中に出てくる脇岬の祭では、あらゆる場面でお互いの忍耐の限界をためし合い、刺激し合うような構成になっているという。万沙子と信次のおくった、無為な自由だけが無限につづく十二年もまた、与えられた試練に耐える生き方に他ならない。そして、いつ二人は再会するのか、いつになったら大団円を迎えるのか、という思いを抱えたまま本書を読みつづける読者にとっても、それは一種の忍耐と言うことができるだろう。だが、だからこそ本書は、物語そのものはありきたりであるにもかかわらず、惹かれずにはいられない輝きをもつことになるのだ。

 そして、約束の十三回忌の年、今年もいつものように響き渡る祇園太鼓に引き寄せられるようにして、二人は再び脇岬へと訪れる……。

 たしかなものなど何ひとつない。十二年の歳月のうちに、あるいは自分が生きているか死んでしまうかさえ、定かではない。それでもなお、自分の全存在をかけてひとつの約束を守り、自分の潔白の意地を貫き通した男女の行く末を、ぜひとも見届けてもらいたいものである。(2000.10.23)

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