【講談社】
『わが手に拳銃を』

高村薫著 

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 以前、私はある本の書評のなかで、「力が欲しいのであれば銃を手に入れればいい」と述べたことがあるが、銃器、とくに猟銃やライフルのように実用的な目的のために使われるものではなく、拳銃という、コンパクトで誰にでも簡単に扱うことができる武器の特性について考えたとき、あるいは日本における日本刀のそれと、ほぼ似たような目的のために生み出されたのではないだろうか、と思うことがある。それは、どちらも純粋に人を殺傷するために発展してきた道具だということである。

 私は銃器に関してとくに詳しいわけではないが、日本の戦国時代に使われていたような火縄銃が、今のような拳銃の形になっていったとするなら、それはある意味恐るべき技術革新だと言えよう。人類の科学技術の進歩の蔭には常に武器の開発がからんでいる、というのはよく言われていることであるが、引き金を引くという、あっけないほどのアクションで、容易にひとりの人間の命を奪うことができる拳銃の歴史は、まさに人間の心の奥底にひそむ闇の部分の歴史であり、それゆえに拳銃という鋼の武器は、言うなれば人間の悪意を一身に背負うことを宿命づけられた存在でもある。その純粋な殺傷能力ゆえに、どれだけ世界じゅうに普及していったとしても、拳銃を持つというのは、否応なく自分を含めた不特定多数の人間の生殺与奪を握ることを意味するのだ。日本の法律において、一般人が銃や刀を所持すること自体が犯罪だと定めているのは、ある意味正しい。

 本書『わが手に拳銃を』における主人公が誰なのか、という問いかけに、私はちょっと戸惑いを覚える。まず、著者の作品全般にも言えることだが、とくに特定の登場人物に深い思い入れを残すことなく、あくまですべてを外側から客観的に描写していく冷徹な視点の置き方がある。もちろん、中心人物というのは存在する。物語がその人物の立場で書かれていくという形式的な意味で言えば、吉田一彰は間違いなく本書の中心人物である。だが、冒頭でまず登場するのは彼ではなく、拳銃だ。その方面に関するひとかたならぬ知識がなければ成し得ない、詳細な拳銃の描写、そして名も知れぬ、しかし確実に拳銃の扱いに慣れているとわかる男たちによって、ひそかに日本に持ちこまれる密造拳銃――吉田一彰をはじめしとて、本書に登場する多くの人物が、ほかならぬ拳銃と関わりをもち、拳銃によってその人生が左右され、翻弄されていくという意味では、本書の真の主人公は拳銃そのものであり、またそれが抱える人間の悪だと言うこともできるだろう。

 吉田一彰は7歳のときに母親を失っていた。彼女が通っていた教会に隣接する、金属加工をおこなう小さな町工場――そこがじつは中国の暴力団とつながりをもち、北京や台北の活動家を匿う場所であり、またひそかに拳銃を密造する場所でもあったことを知らないまま、一彰はその工場に出入りし、そしてある日、一彰の母は、その工場主である守山耕三を狙った発砲事件に巻き込まれたのだ。本書で一彰は、大阪の大学に通うかたわら、当時工場に勤めていた中国人たちの行方を執拗に探し求めているが、それは15年前の事件の真相を知りたいとか、母親を殺した人間に復讐してやるとかいった直接的な動機ではなく、もっと複雑で微妙な、言ってみれば純粋な力、人の命をも絶つことができる力をいっぽうで嫌悪しながらも、いっぽうではどうしようもなく吸い寄せられてしまうという、一彰自身の心の問題であるかのような書かれ方がされている。

 そうして次々に残りの筒を覗き、内部の渦巻きを見ながら、一彰はふと、この渦巻きは一生忘れないだろうと思った。理由はわからなかったが、こういう隠微な渦巻きが自分はほんとうに好きなのだと感じた。

「筒」とは言うまでもなく、拳銃の銃身のことである。本来であれば母の命を奪った憎悪すべき対象であるはずの拳銃と、自分がわかちがたく結びついてしまっているという認識――力に対する畏怖の念は、町工場で職人達が動かしていた機械の、鋼鉄を自在に削ることができるその巨大な力の運動への興奮、という形で、幼少の頃から現われていたものであったが、後に一彰自身がその機械を操作して、同じく巨大な力の運動を引き出す拳銃のチューンアップやカスタムをおこなうようになるのは、なかば運命的なものだと言えよう。

 そしてもうひとつ、本書を語るうえで忘れてならないのが、殺し屋であるリ・オウの存在だ。

 国の民というのは、基本的に、治める者と治められる者のどちらかでなけりゃならないのだと思う。だが、僕はどちらにもなり損なったから、ここにいるんだ。もし自分は何者かと訊かれたら、僕はまず《男》と答える。次に《リ・オウ》と答える。その次に《ギャング》と答える。

 彼もまた、拳銃によってその人生を翻弄される者のひとりであるが、「本職、金儲け。趣味、金儲け。特技、金儲け」とうそぶき、一彰が密造拳銃を盗んで隠してきたことを知るやいなや、目の色を変えてそれを取りに行こうとまくしたてる守銭奴の彼は、しかし何より自分が自由でありつづけるための証として、金の力にあくまでこだわりつづける男でもある。それゆえにリ・オウは、自ら危険を犯して彼の自由を守った一彰には義理高く接するだけの意志を持ちあわせている。金の力と拳銃の力――どちらも純粋な力でありながら、どうしようもなく使い手である人間の意志を反映してしまう力への憧れ、という意味では、一彰とリ・オウはよく似た一面を持っていると言うことができる。

 このふたりの人間の運命がどのように交わり、物語にどのような結末をもたらす事になるのか、という点が、本書を読むうえで大きなキーポイントとなることは間違いないだろう。

 拳銃というのは本来、私たち一般市民の生活と接点をもつことのない存在である。もし接点があるとすれば、そこには必ずと言っていいほど犯罪が絡んでくる。本書はたとえば、拳銃の密造をおこなう工場の無機質な雰囲気と、その外で咲き乱れる桜の花といった、およそミスマッチなふたつの要素を並べて描写することで、その存在感を高めていくシーンが多いが、犯罪というものが人間のおこすものである以上、その境界線がけっして厳然と存在しているわけではないのと同じように、拳銃もまた、私たち人間の存在なしには語れない、どうしようもなく人間と結びついた存在であることを主張しているように思える。拳銃と人間、そして犯罪――拳銃を中心にしておこる人間の、あまりにも人間らしいドラマの数々を、あなたはどのようにとらえるのだろうか。(2003.07.25)

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