【文藝春秋】
『父の詫び状』

向田邦子著 



 お雑煮というのは、地域によっていろいろな違いが顕著に出るものらしい。
 私はもともと北陸の生まれで、東京にやってきたのは大学に入ってからのことなのだが、大学の同級生や会社の上司、オフ会で知り合った方など、けっこういろんな人から「あなたのおうちでは、お雑煮に何を入れる?」と訊かれる。
 お雑煮というと、きまって思い出すのは、小さい頃に母がつくってくれた、餅と御飯をいっしょにして煮込んだ、おかゆのようなお雑煮である。そう答えると、大抵の人が驚きの声をあげる。いつ、どこで話してもあまりにみんな驚くので、はじめは北陸でも、自分の住んでいた町限定の風習なのかもしれない、などと思っていたのだが、たまたま帰省したときに、ふと母に訊ねてみると、あれはたんに、余った御飯がもったいないからそのまま雑煮に入れただけだと言われた。
 私がそれまであたりまえだと思っていた「お雑煮」は、なんてことはない、我が家のオリジナルだったというわけだ。

 向田邦子という方の書いた本で『父の詫び状』というのがある。本書は、これまでに著者自身が体験してきた出来事や、子どもの頃の思い出などを書き綴ったエッセイなのだが、この全部で二十四の短編を収めた本書のなかにも、食べ物に関するエピソードが数多くつまっている。そして、それらのエピソードのひとつひとつが、かつて昭和と呼ばれた時代の日本に溢れていた、あたたかさと、なつかしさに溢れている。
 著者は東京大空襲のときに女学校の三年だったというから、私はもちろんのこと、私の父よりも長い時間を生きてきた方だというのはすぐにわかった。著者が過ごしてきた時代と私が過ごしてきた時代は、けっして重なることはないのだが、それでもなお、本書の内容を自分のことのようになつかしく思うのは、おそらく著者が自分の記憶を呼び覚ますよすがとしている食べ物の味や匂いが、奇妙な親近感を抱かせるからではないか、という気がする。
 著者が描く思い出は、戦前や戦時中のものが多い。アンパン一個が二銭だった頃の話や、東京大空襲のあと、死を覚悟してありったけの白米を握り飯にして家族全員でほおばったという話が、第二次ベビーブームに生まれ、高度経済成長まっさかりの頃に少年時代を過ごした私の心にどこまで理解できたかはさだかではないが、ひとつだけわかったのは、子どもというのはいつの時代も変わらないものだ、ということだ。
 それは、海苔巻のはじっこや、カステラの下の焦茶色になって紙にくっついている部分が好きだということであり、学校から出された宿題をうっかり忘れて、朝になって半泣きになりながらやっていることであり、動物チョコレートの大きい方をとってしまったがために、中ががらんどうだと知ってがっかりすることである。
 いかにも人間臭くて間の抜けた思い出ではある。しかし、そんな思い出に確かな味や匂いを結びつけ、じつに味わいのある文章を書くのが向田邦子という人なのだろう。もし、仮に他の人が同じようなことを書いたとしても、けっして著者のような味わいを出すことはできないに違いない。

 私の父は敗戦の年の冬に生まれた。
 私にとって父というと、まず思い出すのは父の両足だ。小さい頃に、よく父の足を相手に遊んでいたからだろう。なぜ足なのか、今ではよくわからないが、きっと組んだ足をほどこうとすると、すんでのところでまた足を組み替えてしまうという単純さが面白かったのだろう。
 そんな父は今も健在であるが、あまり昔の頃のことを語ったという記憶はない。
 本書には、著者の父のことがよく出てくる。
 そこに書かれているのは、典型的な頑固親父だ。いつも威張ってばかりで、ちょっとしたことですぐ怒鳴ったり拳骨をくらわせたりする暴君だった父、家族のなかで自分だけが特別扱いされるのを好み、人の欠点ばかりあげつらう父を、著者は一方では嫌いだと思いながら、一方ではそんな父が、ドジをやらかした子どもたちを怒鳴りながら、実は笑いをこらえていたり、いざというときにはただオロオロするばかりであったり、品の悪い歌を娘たちに聞かせまいと大声で「バンザイ!」と叫んだりする様子をコミカルに描いている。そこにいるのは、けっして威厳に満ちた父の姿ではない。父親としての威厳を保とうと必死になっている、素直になれない子どものような男の姿である。
 本書に登場する父親像は、昔テレビで見た「寺内貫太郎一家」の、あの貫太郎によく似ている。
 きっと、父か母のどちらかが好きだったのだろう。ストーリーの記憶はどこかへ飛んでしまっているが、小林亜星扮する巨漢の貫太郎が盛大にちゃぶ台をひっくりかえすシーンだけが脳裏に焼きついている。本書を読み終えて、そんなことを考えながら、ふと「著者紹介」を見ると、「寺内貫太郎一家」は他ならぬ向田邦子の作品だった。どおりでよく似ているはずである。

 私がまだ生まれてもいない時代のことを書いているはずなのに、著者の文章は古臭いという感じがしない。そして本書には生身の、具体的な形をともなった人間の、不器用で格好悪い、しかしそれゆえにほほえましい姿がある。
 どんなに時代が移り変わっても、けっして変わらないものを、著者はたしかに知っているような気がする。

「人間はその個性に合った事件に出逢うものだ」
 という意味のことをおっしゃったのは、たしか小林秀雄という方と思う。
 さすがにうまいことをおっしゃるものだと感心をした。私は出逢った事件が、個性というかその人間をつくり上げてゆくものだと思っていたが、そうではないのである。事件の方が、人間を選ぶのである。

 まだ三十にもならないこの私は、これからいったいどのような人と出逢い、どんな人生を過ごしていくのだろう。そんなことを、ふと考えさせるエピソードに満ちた本書は、あるいは一気に読んでしまうようなたぐいの本ではないのかもしれない。ちょっと時間が空いたとき、あるいは気分転換がしたいときに、少しずつ読んでいく。そんな読み方がふさわしい本だ。(2001.02.28)

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