【新潮社】
『ホワイト・ティース』

ゼイディー・スミス著/小竹由美子訳 



 二〇世紀は客人の世紀であった。茶色、黄色、白の。二〇世紀は壮大なる移民の実験の世紀だった。――(中略)――名前と名字が衝突しそうな子供たち。大量移民、窮屈なボートや飛行機、寒々しい入国、検診、そんなものを内に秘めた名前だ。

 ここに書かれている「客人」とは、たんに移民や難民といった人たちのことだけを指すものではない。それはたとえば、私たち日本人が古くから慣れ親しんできた国の伝統、文化、思想、あるいは宗教や、もちろん肌や目の色といった身体的な特徴といった、いろんな意味で大きく異なる要素を含めた象徴としての「移民」を指している。そしてこの上述の文章において注目すべきなのは、彼らを「異分子」ではなく「客人」と表現している点である。排除すべき異物ではなく、歓迎すべき変化をもたらす者として。

 二〇世紀は科学の時代でもあった。科学の進歩は、人々の間に横たわる物理的な距離を大きく縮めることに成功した。そして、それは同時に、これまでなら絶対に出会うことのなかったさまざまな異質なものが入りこみ、混じり合っていくことを意味する。どれだけ純粋であることを尊び、異質なものを追い出そうと努めても、世界そのものがグローバルな流れに傾きつつある以上、こうした異質なもの、あるいは両方の極にあるものどおしの混合を避けることは不可能だろう。本書『ホワイト・ティース』は、言うなればこうした複雑で不安定な今の世界をまるごと取り込んだ、非常に奇怪でややこしい、しかし非常にスケールの大きな、まぎれもない人間たちの物語なのである。

 本書の中心を成すのは、ふたつの家族だ。ひとつは、自分の意志では何ひとつ決定することのできない優柔不断なイギリス人アーチーと、ジャマイカ出身の黒人女性で、「エホバの証人」の熱狂的信者である母の手から逃れるようにして彼と結婚したクララ、そしてそのふたりの間に生まれた聡明なアイリーからなるジョーンズ家。そしてもうひとつは、バングラディッシュ出身で、敬虔なイスラム教徒であることのみを心の拠り所として生きようとするサマードと、その妻アルサナ、そして彼らの息子であり双子の兄弟であるマジトとミラドからなるイクバル家。アーチーとサマードは、第二次世界大戦中に知り合った、言わば戦友であり、イクバル家はアーチーを頼ってイギリスのウィルズデン地区へと移住してきた。前の妻から離婚を突きつけられ、コイントスによって自殺を決めたアーチーが、なんとも風変わりななりゆきでクララと結婚することになってから、物語はときに戦時中へ、あるいはクララの曾祖母の時代へと自在に跳びつつ、第2世代であるアイリー、マジト、ミラドたちの物語を紡いでいく……。

 とにかくスケールの大きな物語である。そのうえ多数の登場人物たちが物語の中で複雑に関係しあい、彼らが抱える背景や思想の変化が物語に大きな影響をおよぼすがゆえに、ひと口で説明するのはあまりにも困難な作業であるし、また物語のあらすじを追うこと自体に大きな意味はない。ただ、はっきり言えることがあるとすれば、それは本書に登場する家族の、親から子への世代の移り変わりが、そのまま世界におけるさまざまな「異質」なものの融合――固有のもの、純粋なものから、雑種的なものへと変化していくという、世界的な傾向そのものを象徴してしまっている、ということだろう。そしてそれは同時に、戦いや争いの時代から、融和の時代への移行の象徴でもある。

 たとえば、アーチーの仕事はダイレクトメールを折りたたむ、という単純労働であり、本書の言葉を借りるなら「英国のシステムからは、もう何年も前にあざけりとともにはたき落とされている」人間、いわば社会における低所得層に位置しているうえに、黒人女性という、自分とは異なる人種の女性と結婚している人間でもある。いっぽうのサマードは、戦争によって右腕を不具にされたうえに、異国の地であるイギリスで、移民として生きていかなければならない人間である。周囲の環境からすれば、まさに異質なものの代表選手である彼らの立場は、多くの困難と苦労に満ちたものであることは容易に想像がつくと思うが、そうした環境に対して、アーチーは確固たるものを何ももたない――すべての重要な選択を放棄することで、またサマードは、敬虔なムスリムであることを貫くことで、自分たちのささやかな場所を守りつづけてきた。それは、かつてのふたりがともに第2次世界大戦を兵士という立場にあったように、ひとつの「戦い」として位置づけられるものだ。

 だが、そうやって戦い、守ってきたささやかなものが、そのまま子どもたちに受け継がれるわけではない。むしろ、親が思想なり戒律なりを押しつけようとすればするほど、子どもたちはそれとは反対の方向に進んでしまう、という皮肉な展開を示すのだ。イクバル家の双子の兄であるマジドは、イギリス的な思想に毒されることのないよう、バングラディッシュにおくられ、彼はそこで少年時代を過ごすことになるが、その結果、マジドは父の意志に反してイギリス人よりもイギリス人的な人間に成長してしまう。いっぽう、いつも不良たちの中心にいて、麻薬や女遊びといった即物的な快楽に忠実な問題児だったミラドは逆に、しだいにイスラム原理主義の活動へと浸透していくことになる。そして、白人と黒人の混血児であるアイリーは、何ひとつ選択しない父親とは対照的に、国の伝統や因習に縛られない、知的でリベラルな家庭を築くチャルフェン家の思想も、自身の母方の系列であるボーデン家の、極端に宗教的な思想も選びとり、受け入れていく。もちろん、マジドやミラドのように、いっぽうの極から極への転向や、アイリーのような豊かな包容力であるものをそのまま受け入れる、といった方向の違いはあるが、彼ら2世に共通しているのは、なんでもあり、ということであり、またごちゃまぜ、ということであろう。

 これは新しい種族で、最近、街のさまざまな集団の一つとして加わったばかりだった。――(中略)――ラガスタニは、ジャマイカ訛、ベンガル語、グジャラート語、英語が奇妙に入り混じった言葉を話す。彼らの精神、彼らの主張などと言えるものがあるとしたら、それもまた雑種である。アッラーは重要な役割を演じているが、至高のものというよりは、集団の保護者的な存在、必要とあらば自分の持ち場で戦うたくましい男である。カンフーおよびブルース・リー作品もまた、その哲学の中核である。

 アッラーの神と、ブルース・リーを同列のものとして取り込んでしまう混沌――それは既存の伝統や文化に代表される秩序をおびやかす存在であるが、同時にそこには大きなエネルギーが秘められている、と言うこともできる。そこからいったい何が生まれてくることになるのか、それこそ神のみぞ知る、というわけだが、それを象徴するかのように、物語は彼ら3人を中心に、彼らと直接的、間接的にかかわりを持ったさまざまな人々や組織や団体をすべてまきこんで、最終的にはある一点に向かって収束していく。それは、たしかにダイナミックな展開であり、独特のテンポを有した流れであるが、あるいは極東の島国で生まれ育った私たち日本人には、ちょっととっつきにくいものがあるかもしれない。だが、そうした違和感――たとえば、中国人によるロックバンドの演奏をはじめて聴くような違和感も含めたうえで、本書の存在は成立するのだと思う。

 子どもが親の押しつけるものに反発し、独自に経験し、ものを考え、成長していくのと同じように、2つの異端な一家から生まれた2世たちも、また成長していく。だがその成長は、私たち日本人が「日本人」というアイデンティティに生まれながらにして守られているのに対し、より深いところで自身の居場所を求めていかなくてはならないぶん、不安定で混沌としたものとなるだろう。本書の複雑怪奇で、あらゆるものが混在している物語は、異なるもの、対極を成すものが融合したときに生まれてくる、まぶしいくらいのエネルギーに満ちた、まさに二〇世紀の世界そのものを表現した作品だと言えるだろう。そしてそれは、あらゆる人種的、宗教的違いを乗り越えた、まぎれもない「人間」のドラマでもあるのだ。(2002.10.28)

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