【角川書店】
『ウォーレスの人魚』

岩井俊二著 



 あなたは「人魚」という言葉から、何を想像するだろうか。アンデルセンの童話に出てくるような、下半身が魚で、歌の上手な美少女の姿だろうか、それとも、日本や中国の伝承に出てくるような、不老不死の象徴でもある妖怪の姿だろうか。いずれにしろ、人魚――海に住む人型の生物の民話や伝承は、洋の東西を問わずいろいろな地方に存在するようだ。

 もちろん、人魚なる生物が存在する、などと本気で考えている人はいないだろう。だが、例えば同じく世界中に残っている洪水伝説(もしくは神話)から、過去に世界規模の大洪水があったのではないか、と大真面目に考える学者がいるように、世界中に多くの伝承を残す人魚が、もしかしたら実在するのではないか、と考える人がいても、それはけっして不思議なことではないのかもしれない。

 本書『ウォーレスの人魚』は、ある学者が書き残した書物の紹介から始まる。アルフレッド・R・ウォーレス――『種の起源』であまりにも有名なダーウィンより以前に進化論を確立していたにもかかわらず、ダーウィンになれなかった男――が、その晩年に発表した奇書『香港人魚録』は、彼が香港で出会い、人間の男と結婚したという人魚の記録が書かれている。この、いかにも胡散臭い書物の内容を裏づける事件が、書物の発表から実に一世紀近く経った二十一世紀の近未来で起こった。
 ひとつは、赤道直下のセント・マリア島に研究所をかまえて本格的なイルカの研究を行なっているライアン・ノリスたち研究チームが、その研究の最中に海中でひどい幻聴や幻覚を見たことから始まった、一連の人魚騒動。もうひとつは、沖縄の沿岸で遭難した船に乗っていて、二ヶ月ものあいだ海の底に沈んでいたにもかかわらず、奇跡的な生還を果たした海原密という名の男の話。
 セント・マリア島での事件以来、ひそかに人魚の研究をつづけてきたライアンたち、そして事件のときに偶然居合わせていた記者のビリー・ハンプソンに、人魚の血を引いていると告げられた密は、自分の本当の両親――彼らこそ『香港人魚録』に出てくる人魚の子孫なのだが――に会いに行く途中、ライアンの一人娘であるジェシーと出会い、不思議な絆で結ばれているかのように、互いに恋に落ちてしまう。

 とこうあらすじを書いていくと、ずいぶんとりとめもない文章になってしまうのだが、物語はここから急展開で進む。密とジェシーの過去に隠された衝撃的な真実、人魚の研究に理解を示す、世界的な進化学の権威であるリック・ケインズの正体、研究のためには人命さえ顧みない斎門斉一の魔の手、そして、何よりも人魚とその眷属の存在――読みすすめていくうちに、一見ばらばらな物語の要素が、ウォーレスの『香港人魚録』というひとつの大きな伏線によって、見事なまでにひとつにまとまっていくのに気づくことだろう。そういった意味で、非常によくできた作品だと言える。

 高周波を用いて水(そこには人間の血液も含まれる)を自在に操り、他人の意識のなかに入り込み、また深海魚のそれを彷彿とさせる、およそ人間の理解の範疇を超えた生殖方法をもっている人魚――あくまで人魚は実在する、という視点から、科学的な根拠を取り入れて描かれている本書の人魚は、外見こそ人間とよく似てはいるものの、その水中での適応能力を考えてみると、やはり人間とはまったく別の生き物だと言うべきようにも思う。だが、どうなのだろう。人間と生殖する能力も持ち、そのハーフとも言える人間を産み出している人魚は、本当に人間とはまったく無関係に進化した生き物なのだろうか。本書あとがきには「人魚と人間の愛の物語」と書いてある。だが、同時に「人魚と人魚の愛の物語」であり、また「人間と人間の愛の物語」であるようにも思う。なぜ私がそう考えたのか、それは本書を読んで確かめてもらうほかにない。

 地球の七割は海で覆われているという。その広大なフィールドである海を捨てて、生物はなぜ陸にあがって進化をとげなければならなかったのか――本書を読み終えて、私はふと、そんなことを考える。そして、地球の三割にも満たない陸上において爆発的に繁殖してきた人間という種は、これからどうなっていくのだろう、と。(1999.06.12)

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