【角川書店】
『わたしの出会った子どもたち』

灰谷健次郎著  



 あなたはこれまで、自分の内にあるまぎれもない自分自身と、正面から向かい合ったことがあるだろうか。

 自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身である、ということ――私はこれまでけっして少ないとは言えない数の作品を読み、そのうちのいくつかについて、「アイデンティティの確立」といったテーマ性を見いだし、そのように評してきた。そのこと自体、間違いだったとは思わない。だが、今になってふと思うことがあるとすれば、まぎれもない自分自身を確立していくこと、それも、自分の外から誰かによって与えられる薄っぺらなアイデンティティではなく、自分の内側をひたすら掘り下げていくことによってはじめて見いだすことのできるアイデンティティをしっかりと見据え、自分のものとして受け入れる、という途方もない行為について、私はいったいどれほどのことを知っていたというのだろうか、ということなのだ。

 人間というのは、とかく自分の都合の良い部分ばかりに目をやり、それを信じ込もうとする弱い生き物である。自分自身と正面から向かい合う、というのは、自分の良い面ばかりでなく、自分が抱えこんでいる悪い面、醜い面とも向き合わなければならないことを意味する。そしてそれは、下手に勉強ができたり頭が良かったりする知識人と呼ばれる人や、これまでの人生でとくに大きな失敗もなく過ごしてきた人たちほど、容易なことではないはずなのだ。

 灰谷健次郎という人の作品について、以前私は掲示板で「名前は知っているが、その作品は読んだことがない」と書いてしまったことを、ここに告白しなければならない。それは大きな誤りである。私は小さい頃に、たとえば『ワルのポケット』など、いくつかの児童書を通じて著者とたしかに触れ合ったことがあった。そして、そのまま忘れてしまっていた。おそらくそのときの私は、自分の周囲にあるものから何ひとつ学ぶことをしなかった、自分勝手で傲慢な子どもだったに違いない。本書『わたしの出会った子どもたち』は、そのタイトルどおり、著者がその人生においてさまざまな形で出会うことになる子どもたち――とくに、彼が小学校の教師だった頃に接した子どもたちのことを綴った作品であるが、著者がそんな彼らの姿をとおして見ていたのは、自分の心の内にある醜くて傲慢な自分自身であり、そういう意味で本書は、人が自分の痛みをすべてさらけ出し、そうすることによってのみ浮かびあがるありのままの自分を見つめていく過程を描いた作品だと言うことができるだろう。

 著者の作品には大抵、子どもたちが登場する。それもただの子どもではない。ことあるごとにとんでもない悪戯をしでかしたり、大人の言うことに反抗したり、あるいは他の子どものように要領がよくなかったり、うまく自分の言いたいことを伝えられなかったりする、大人の目からは「問題児」のように見える子どもたちである。著者はそんな子どもたちを、大人の都合で一方的にレッテルづけされた、特異な存在としてではなく、自分と同格の、命かがやく人間としてあつかい、あくまで真摯に、そして厳しいまなざしを向けることによって、生き生きとした子どもたちの世界を作品の中に蘇らせることに成功した。かつては教育者として、また文学を志す者として、子どもたちを教え導く立場にいた著者が、これほどまでに圧倒的な子どもたちの世界を表現することができたのは、なぜなのか――けっして知識として頭で理解するだけでは到達し得ない、著者の人生観とでも言うべきものの源泉が、本書の中にはたしかにある。

 本書の中で著者が出会うことになる人たちは、子どもばかりにとどまらない。定時制高校に通っていた頃に工場で知り合った底辺労働者たちや、教師をやめて各地を放浪していたときに出会った沖縄の人たち、あるいは、著者に大きな影響を与えることになった雑誌「きりん」のなかにいる、小さな詩人たち――彼らに共通しているのは、誰もがさまざまな理由で、人生の絶望の淵に立たされていながら、底抜けに明るく、そして他人に対する優しさを失っていない、ということである。他人を、人生を、世界そのものを憎悪してしかるべき目に遭いながら、身も張り裂けそうな悲しみに打ちひしがれることなく、きわめて楽観的に生きている彼らの姿に、著者は大きな影響を受ける。そして同時に、けっして幸福だったとは言えない自身の生を対比せずはいられなくなる。それは、けっして不幸自慢とか、自分はまだマシなほうだといった安心感を得るためのものではなく、彼らの優しさに甘え、その明るさの奥にあるものを見ようとしなかった自分の弱さ、非人間性と向かい合う、ということなのだ。

 かれらの極楽とんぼぶりや、かれらの楽天主義を、無知のなせるわざとどこかで考えて、ひそかに軽蔑していたぼくは完全な人間失格者であった。
 ほんとうに人間を愛することのできる人は、本来、楽天主義者であると、今、ぼくは思う。そして、楽天主義こそが、ほんとうの批判精神の持主であるとも思う。

 私たちはふだん、知らないうちに人と自分を比べ、人を差別して生きている。それは、当人にはけっして自覚されることのない差別意識でもある。そして、それゆえにもっともたちの悪い差別だと言える。たとえば、借金を抱えて四苦八苦している子沢山の家族ドキュメンタリー番組を見て、「ウチはこいつらほどひどくはないな」と思ってはいないだろうか。たとえば、重度の障害を負った人たちの姿をまのあたりにして、「彼らは生きていて何の楽しみがあるのだろう」と思ってはいないだろうか。著者が自分自身に向ける厳しい叱責は、そのまま読者自身にも向けられている。そのことに気づいたとき、私はナイフで身をえぐられるような痛みをたしかに感じた。私がこれまでしてきた書評の数々――だが、私は本当に、それらの作品について書評をしたと言えるのだろうか。『豆腐屋の四季』の短歌のなかににじみ出ていた、朴訥な生活、『最初の教師・母なる大地』のなかに描かれる、凍てつく荒野で懸命に生きている人々の心、『彩花へ――「生きる力」をありがとう』のなかで著者が受けた地獄のような苦しみと、それでもなお生きていこうとする人間の底知れぬ強さについて、私はいったいどれだけのことがわかっていたと言うのだろう。

 自分が傷つけられることには人一倍敏感でありながら、自分が人を傷つけることにはこのうえなく鈍感な人間――本書は今から20年以上も前に書かれた作品であるが、「人を殺してみたかった」という理由で本当に人を殺す子どもや、集団で万引をおこない、つかまりそうになったら催涙ガスやナイフで襲いかかることを平然とやってのける子どもたちが現実として存在するようになった現状を見るにつけ、本書のなかで語られる「優しさ」と「楽天主義」というものの本当の意味を考えずにはいられなくなる。私も含めたすべての利己的な人間たちが、真に自分のなかの醜い自分自身と正面から立ち向かえるようになるには、あとどれだけの「優しさ」が犠牲にならなければならないのだろうか。(2003.06.08)

ホームへ