【講談社】
『狐罠』

北森鴻著 

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 たとえば、私がこのサイトで紹介している「本」について触れてみよう。
 本の基本的な考え方は、ある特定の情報を伝達あるいは保存するための媒介物、ということである。つまり、私たちが「本」を購入するときは、あくまで本の中に書かれた情報(ソフト)を買うのであって、本の形態(ハード)を選んで買うわけではないのだ。一度読んでしまった本、たとえば小説といった読み物などはとくにそうだと思うが、何かの機会にページをめくるようなことはあるかもしれないが、よほどその内容に思い入れがないかぎり、何度も繰り返して読むということはない。極端なことをいってしまえば、本がもつソフトさえ手に入れてしまえば、残されたハードとしての本は昨日やおとといの新聞同様、その人にとってはただの紙の塊と化す。むろん、人間はコンピュータのように膨大な情報を正確に記憶できるわけではないので、必要な「ソフト」をもつ本は持ち主に長く大事にされる。だが、それでも重要なのは「ソフト」のほうであって、けっして「ハード」のほうではないのだ。

 ところが面白いことに、この「ハード」としての本の価値が、ある条件によっては大きく跳ね上がってしまう場合がある。たとえば、著者直筆のサインが入っている、限定本など、発行部数が少ないものである、あるいはものすごく長い年月を経てきた古文書のようなものである、といった「プレミア」がつけられることによって、本が内包する「ソフト」と「ハード」の価値観が逆転したとき、それは「本」から「骨董品」へと変貌をとげることになる。そう、本にかぎらず、ちょっとした紙切れや布の一枚が、学術的・美術的価値をもつ逸品へと大化けする可能性を秘めた世界、それが、骨董という世界の特異性であり、また魅力でもあると言えよう。

 本書『狐罠』に登場する宇佐美陶子という女性は、「冬狐堂」という屋号をもつ旗師である。旗師というのは、特定の店舗を持たず、一般客や業者の間に入って品物を流通させる、バイヤー的な役割をはたす骨董商であり、陶子はまだ日の浅い旗師でありながら、その卓越した鑑定眼と、美術の知識からはぐくまれた審美眼によって、骨董業界ではにわかに注目されるようになってきた実力者でもあった。
 だが、そんな凄腕の彼女の目利きを見事にあざむくような贋作との出会いが、その後の陶子の人生を大きく変えていくことになる。彼女が自信をもって買い上げた、発掘物の唐様切子紺碧碗――それが、骨董業界の重鎮「橘薫堂」の橘秀曳によって仕掛けられた、プロをも欺く巧妙な「目利き殺し」であることを、保険会社の美術監査部に勤める鄭富健から聞かされたとき、彼女は橘薫堂に対して、意趣返しとも言うべき「目利き殺し」を仕掛ける決意をするのだが……。

 偽物を「本物」といつわって相手に売りつけるのは、間違いなく詐欺であり、犯罪行為でもある。だが、これがこと骨董業界となると、贋作をそれと気づかずに買ってしまった者の「目がない」、つまりは未熟者である、というレッテルが貼られてしまう。そんな、どこか胡散臭くダークな一面をもつ骨董業界のなかで、なにより古美術への真摯な愛情をもって仕事をつづけていた陶子が、たとえ意趣返しとはいえ、贋作づくりに手を染めてしまう――そういう意味では、本書はひとりの人間が転落していくさまを描いた作品であり、また彼女の知らないところで起こった、橘薫堂の外商であった田倉俊子殺人事件に巻き込まれてしまう、という点で典型的な巻き込まれ型の物語でもある。だが、そうした要素をもって、宇佐美陶子という女性が不運であったのか、といえば、けっしてそうとばかりは言い切れない部分があるのを認めなければならない。そしてそのことを語るためのキーになるのは、陶子と、彼女の元夫であったイギリス人教授、プロフェッサーDとの関係である。

 プロフェッサーDは、陶子に美術に関する目を育てた人物で、ふたりの関係は夫婦というよりは、むしろ教授と門下生というほうがふさわしいものがある。陶子の旗師としての目利きの妙は、ひとえにプロフェッサーDの教育の賜物だと言ってもいいだろう。だが、結果として陶子はプロフェッサーDから離れていった。その原因について、本書には詳しく書かれてはいないが、プロフェッサーDが一途に「本物」に目を向ける正当さを象徴していると考えたとき、彼との離婚という事実が、すでに陶子の「贋作」への傾倒の伏線として機能していることに、読者は気がつくことになる。本書における古美術や骨董業界、そして贋作づくりに関する圧倒的な知識は間違いなくひとつの大きな特長であるが、それ以上に重要なのは、こうしたさまざまな知識を物語の伏線として仕掛けていくことの妙技である。まさに、骨董という特殊な世界を舞台にしなければ描くことのできない物語が、本書の中にはたしかに存在するのだ。

 これまで私、贋作を扱ったことはありませんでした。それがプロフェッサーの教えでしたから。でも、この世界にいるかぎり、贋作に目を背けてはいけないんです。――(中略)――私は自分の手を贋作に染めます。

 誰にも偽物だと気づかれない完璧な偽造紙幣は、誰も損をさせず、誰一人傷つけない。その時点で、偽札は偽札ではなくなる――真保裕一の『奪取』は、贋金作りを男のロマンに変えた傑作であるが、本書はあくまで贋作は贋作、けっして本物を超えることの許されないまがい物である、という姿勢を貫きながらも、それでもなお目を背けることのできない「贋作」のもつ黒い魅力、その技術のすさまじさについても、充分すぎるほど表現しきってみせている。その当時の材料を使い、当時と同じ服装と明かりで、当時使われたであろう道具を再現してまで作られる「贋作」――しかも、その膨大なエネルギーがひたすら人の目をあざむくためだけに注がれている、という事実は、たしかにごく普通の世界に生き、ごく普通の世界の犯罪を追いかけている練馬署の刑事、根岸や四阿には想像のつかないものであるに違いない。

 だが、逆にこんなふうに本書をとらえることもできるのだ。この世にはけっして綺麗なもの、美しいものだけがあるわけではない。光と影が互いに相反するものでありながら分かちがたく結びついているように、人の心を打つ美術の裏にもまた、必ず醜く歪んだものが含まれているものである。もしそうであるとするなら、その両方を見据えることで、はじめてその世界の真の姿をとらえることができるのではないか、と。

 はたして、陶子の橘薫堂への「目利き殺し」は成功するのか、田倉俊子を殺したのは誰なのか、そしてその背景には、どのような秘密が隠されているのか? 骨董という特殊な世界の表と裏、幾重にも張り巡らされた伏線の妙、そしてなにより、宇佐美陶子が今回の事件を通じて、どのような変貌を遂げることになるのか、ぜひとも味わっていただきたい。(2004.02.14)

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