【中央公論新社】
『嗤う伊右衛門』

京極夏彦著 



 四谷怪談のお岩、と言えば、日本の怪談としてはもっともポピュラーなもののひとつとして挙げられるだろう。もともとは鶴屋南北の手による戯曲『東海道四谷怪談』から派生したものであって、一般的には、顔のただれた幽霊のお岩が「うらめしや〜」と出てくるシーンばかりがひとり歩きしているような感があり、そもそもお岩が何を恨めしいと思っていたのか、深いところまで考えたことのある人はそう多くはないのではないか、と邪推している。何を隠そう、私自身がそうだった。原作がどのような筋書になっているのか、詳しいところまで知っているわけではないが、毒によってふためと見られぬ醜い顔に変貌し、夫の伊右衛門に捨てられて悶死したお岩は、その美貌を奪われたこと、そして何より自分を捨てて別の女に走った夫に対する恨みを募らせていたのだろう、と世間なみに認識していた程度だった。

 現代に生きる小説家を含めた、芸術を志す者たちにとって、古典的名作は、進んで模倣すべき手本であると同時に、いつかは乗り越えて自分なりの新しい境地を切り開いていくための通過点でもあるはずだ。そういう意味で、本書『嗤う伊右衛門』によって京極夏彦は、それまで奇怪で残酷な(実際にはそれだけでなく、忠臣蔵の海賊版とも言うべき滑稽さをも持ち合わせている作品なのだが、その点に関しては今回は触れない)怪談話でしかなかった四谷怪談に、複雑な人間関係といかんともしがたい人の心、その繊細な感情の変化を盛り込むことによって、伊右衛門とお岩の愛の物語を再構築することに成功したと言うことができるだろう。そしてその再構築は、まぎれもなく古典的名作を乗り越える作業となったのである。

 古くから御先手組同心として忠実に職務を勤め上げてきた、歴史ある民谷家の息女である岩は、しかしその家名や世間体といったものにまったく興味を示さない、どころか自分の持つ容姿の美しさや、自分を女らしく飾りたてるといったことにさえ頓着しない、良く言えば古い伝統や因習に縛られることのない、悪く言えば破天荒で人に誤解されやすい女性だった。だが、けっして頭が悪いわけではない。過去の栄光ばかりを自慢し、今では門番以下の役割しか果たさない勤めを生真面目に全うすることしかできない父又左衛門の立場を鋭く洞察することのできる彼女は、本当に大切なものとどうでもいいことの区別をはっきりとつけることのできる才女でもあったのだ。
 それゆえに、重度の疱瘡を患い、その容貌がふた目と見られぬほど醜く崩れたことも、岩にとってみればただ外見が変わっただけのことでしかなかった。そのことだけをとり上げても、岩という女性が個人としていかに強い心を持っているか、うかがい知ることができるだろう。逆に言えば、顔が崩れ、男どもが見向きもしなくなり、誰かの嫁になる可能性がほとんどなくなったとしても、彼女にとっては仕方がないこと、で片づけられる問題なのだ。

 だが、本書のなかではけっきょく、岩は伊右衛門の妻となる。一介の貧乏浪人であり、噂では相当の剣術の持ち主でもあるという、その伊右衛門が、なぜ民谷家の入り婿として、岩の夫となることに承諾したのか――少なくとも歴史はある家柄の名前がほしかったのか、家の株が目当てか、あるいはただ騙されただけか……周囲の者たちは口々に噂する。だが、そのどれもが正しいようでいて、じつはどれも正しくはない。

 もとより、詳しいことはわからない。なにより、伊右衛門本人が自分でもよくわからない、と告白しているくらいである。ただ確かなのは、世の中というものがじつに曖昧で、はっきりとしないものである、ということを人一倍自覚していることだ。それは伊右衛門が人一倍几帳面であり、かすれたり、歪んだり、隙間があいたりすることをことのほか嫌うという性格にも象徴されている。そして、その性質は言うまでもなく、伊右衛門を曖昧な世の中に対する厭世主義に走らせることになる。

 誰がどのような思惑で語れども、言葉というものはそもそも半分は嘘なのだ。語り手が幾ら真実を語ったつもりでいても、語りは真実そのものではない。逆にでたらめな言葉を並べても、半分は本当になる。――(中略)――だから伊右衛門にとって世の中は、常に半分程度実である。

 本書のなかで、伊右衛門の行動は常に受動的なものであり、自分の意見を主張したり、自分から進んで何か行動をおこすようなことはしない。逆に岩の言動は、常に毅然と構え、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり判断を下さずにはいられない、まっすぐな性格である。お互いの中の、それぞれ足りないもの――もしふたりの心がほんとうに互いを慕っていたのだとするなら、それは無いものを補う形の愛であり、ふたりでひとつとなるための愛だということができるだろう。現に、伊右衛門は岩との新婚生活のときは、積極的に岩と喧嘩をしているし、岩もまた、一度は伊右衛門に体をあずけるという受身の姿勢を見せているのだ。それでいて、ふたりともけっして口にすることはなかったが、お互いの存在に必要以上に気を使い、互いのためになればと本気で案じているのである。

 真実を半分しか伝えないこの世の中における、伊右衛門と岩との心のすれちがい――だが、それが後につづく悲劇のはじまりとなる。著者は古典的名作である怪談話を、人間であるがゆえに他人を完全に理解することのできない、それゆえの悲劇の物語に転換させたのである。そして、その悲劇によってふたりを結びつけようとも。

 世の中のあらゆるものが気に入らず、それらを壊し、破滅させたいという欲求に逆らうことのできない悪人の伊東喜兵衛、妹をかどわかし、自殺に追い込んだ喜兵衛への復讐に燃える直助、口八丁手八丁で相手を騙すことを生業とするえせ坊主の又市、按摩師の宅悦、そして喜兵衛に無理やり囲われ、その現状から逃げ出すために伊右衛門と岩との仲を裂く手助けをしなければならなかった梅――物語の因果はさまざまな登場人物を介して複雑にからみあい、そもそも本書の悲劇の責任が誰にあるのか、どこがその悲劇のそもそものはじまりだったのか、もはや誰にもわからない。あるいは誰もがその悲劇を生み出すために一役買っていたとも言えるし、誰にも責任はないのかもしれない。どちらにしろ、岩にしてみれば、何を今更、であろう。

 本書のタイトルとはうらはらに、伊右衛門は常に仏頂面で、けっして嗤うことがない。その伊右衛門が嗤ったとき、はたして何がおこるのか――その嗤いの含むところを、本書を読んでぜひ汲み取ってもらいたい。そして、本書のラストで大いに感動してもらいたい。(2000.04.11)

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