【新潮社】
『朗読者』

ベルンハルト・シュリンク著/松永美穂訳 



 人は自分以外の人間のことを、どこまで理解することができるのだろうか。いや、そもそも自分自身のことでさえ完全に理解できないというのに、いったいどうやって他人のことなど理解すればいいというのだろう。このような、自分と他者との問題について言及するときに、私が一貫して主張してきたのは、最終的に人は孤独な生き物だということである。どれだけ言葉を費やし、肌を重ね合わせても、その人の本質にはけっして届かない、という絶望感――だが、それでもなお、その人に近づき、自分と他人との間に穿たれた底知れぬ溝を埋めようと努力せずにはいられない人間の不条理さ、そこにこそ、想像力をもってしまった人間の生の哀しさがあるのだ、と。なぜなら、想像力とは、まさに自分以外の人間を思いやるために備わった能力だからだ。

 人間と孤独とは、切っても切り離せない要素のひとつである。だが、すべての人間が自分の内の孤独と向かい合って生きていけるほど強いわけではない。だからこそ人は、自他の圧倒的な差を、想像力をはたらかせてなんとか補い、納得しようとするのではないだろうか。たとえ、それがどれだけひとりよがりな考えであったとしても、だ。本書『朗読者』は、その生涯の大半を費やして、ひとりの女性を理解しようと努めた男の話である。

 本書の構造は、大きく三つに分けることができる。学校からの帰り道に気分が悪くなったしまった十五歳の少年ミヒャエル・ベルクが、おもいがけず通りがかったハンナ・シュミッツという名の女性の介抱を受けたことがきっかけでお互いに知り合うようになり、やがてそれがひとつの恋愛に発展していきながら、ある日、ミヒャエルに一言もなくハンナが突然その町から姿を消してしまうまでがひとつ、次に、法学を専攻する学生となったミヒャエルが、ナチス時代の強制収容所をめぐる裁判の法廷を傍聴したさいに、またしてもおもがけずハンナを――しかも親衛隊のひとりとして収容所ではたらいていた、という戦争犯罪者としてのハンナと再会してから、まるで憑かれたように裁判を傍聴する過程で、彼女が読み書きができないという事実に気づき、しかしけっきょく彼女のために何もできないまま、ハンナの刑が宣告されるまでがひとつ、そして、結婚と離婚を経験し、法史学の研究所ではたらくようになったミヒャエルが、服役中のハンナに、かつて恋人だった頃にやっていたような小説や詩の朗読をカセットテープに録音し、ハンナに送りつづけるようになってからラストまででひとつ、である。そして、各章において共通のキーワードとなっているのは、言うまでもなく「朗読」である。

 朗読をすることは、読み手と聞き手をひとつの世界で結びつけることを意味する。年齢も立場もまるっきり違うミヒャエルとハンナが、お互いの存在をより強く確かめ、愛を深めていくためにセックスするのと同じように、朗読は二人の世界を結びつける共通の要素のひとつとして機能していた。
 だが、それはあくまでミヒャエルがハンナに一方的に与えるだけのものであって、その逆はありえなかった。ミヒャエルはハンナのことを、ハンナがミヒャエルのことを知るようには知らなかった、という事実を、彼は皮肉なことに、第三者である裁判官が読み上げる起訴状の「朗読」によって知ることになるのだが、彼女がナチスの戦犯だったという驚愕すべき過去と、かつての自分が知っていたハンナの姿とのギャップに苦しみながらも、彼はけっして判断停止に陥ったりせず、むしろ法学生としての冷静な観察力を発揮することで、ハンナが文盲であるという、ひとつの事実にたどりつく。しかし、その事実さえも、それまでの謎を解決する代わりに、新たな謎を生み出す結果にしかならなかった。傍聴人と被告人という立場の違いがあまりにも遠いのと同じように、ミヒャエルとハンナの距離は、彼の意思に反して遠く隔たったままなのである。

 読み書きができない、という事実について、今の私たちは、いったいどのくらい想像力をはたらかせることができるだろうか、とふと考える。言葉が不完全なものではあるが、人と人とのコミュニケーションの重要な手段だというのは厳然たる事実であり、ハンナがその生涯において、口頭による会話以外に自分の気持ちや考えを伝えるための方法を持てなかった、ということを意味する。文字が読めなければ、手紙などによるコミュニケーションが不可能であるばかりか、多くの知識や情報を得る機会さえ失われてしまう。そして、文字が書けなければ、自分が思ったことや感じたこと――つまり自分がこの世にたしかに存在している、あるいはかつて存在していたという証拠すら残せないことを意味するのだ。

 それがいったい何を意味するのか? ただひとつだけ明らかなのは、文字の読み書きがあたりまえのように思っている私たちの想像力が、じつはたいして役には立たない、ということなのである。そう、ミヒャエルが強制収容所のあった場所に足を運び、そこでおこなわれていた虐殺のことを想像しようと努めながら、けっきょくはうまくいかなかなったのと同じように。

 ぼくはハンナの犯罪を理解すると同時に裁きたいと思った。しかし、その犯罪は恐ろしすぎた。理解しようとすると、それが本来裁かれるようには裁けないと感じた。世間がやるようにそれを裁こうとすると、彼女を理解する余地は残っていなかった。でもぼくはハンナを理解したいと思ったのだ。

 かつて、囚人たちに本を朗読することを強制し、また年下の少年だったミヒャエルにもしきりに朗読することを求めたハンナ、そして、たとえ自分が言われのない罪をかぶることになろうと、自分が文盲であるという事実を隠そうとしたハンナ――そんな彼女が文字の読み書きを習おうと決意したのが、世間から隔絶された刑務所であったというのは、ある意味まさにハンナらしいと言わざるを得ない。そして、ミヒャエルの朗読テープを通して、はじめて与えられる立場から、与える立場になったハンナが最後にとった行動とは……?

 私たち戦後生まれの日本人にとっても無関係ではない、国が犯した罪の問題を、ひとりの女性がたどった運命と絡めあわせて眼前につきつけることで、どうあがいても理解することも、想像することさえできない事柄に対して、私たちがどのように向かい合うべきなのかを指し示そうとした本書は、やはり意義深い作品であると断言することができるだろう。(2000.08.19)

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