【角川春樹事務所】
『紫の砂漠』

松村栄子著 



 地球上に生息する生物のなかで、おそらく人間だけが唯一、自分たちを種や環境という大きなレベルではなく、あくまで一個人の存在としてとらえようとする生き物だと言うことができるだろう。それは、生物としての本能の赴くままに生きることを拒否し、高度に発達した知識と文明のなかで、理知的に生きることを選んだ結果でもある。だが、それゆえに人間は孤独を抱えて生きなければならなくなったとも言える。どんなに言葉を費やしても、どんなに体を重ねても、相手のことを真に理解することは基本的に不可能であり、それゆえにちょっとした誤解やすれ違いのために争い、殺し合うということをもう何千年もつづけている。人と人との間には、知識では乗り越えることのできない、深い断絶があるのだ。

 もし、たった一度でいい、人と人とがお互いの心を通わせることができたら、それはなんと素晴らしいことであろうか、と思うことがある。じっさい、肉体の制約を越えた精神的なつながりは、多くの人にとって大きな魅力であり、SFやファンタジーの世界ではその手の物語には事欠かないくらいである。逆を言えば、SFやファンタジーといった架空の世界を設定しなければ描くことができないほど、私たちの住む現実の世界は柔軟性を失ってしまっている、ということなのかもしれない。

 本書『紫の砂漠』では、「真実の恋」というものが出てくる。ここではない場所、今ではない時――中心に神々の領域である紫の砂漠をたたえた異世界において、人々は生まれたときは性というものを持たず、生涯の伴侶となる相手と巡りあい、ただ一度心を通わせた瞬間に「守る性」と「生む性」とに分かたれるという。見守る神、告げる神、聞く神の三神信仰によって世界は秩序づけられ、それぞれの神に仕える祈祷師、巫祝、書記によって秩序が維持されている平和なこの世界において、唯一恋をすることのみが人間に最初から与えられた力だった。

 果てしなく広がる紫色の砂漠デゼール・ヴィオレ――かつて、すべてがそこから生み出され、今はもう何もなくなってしまい、ただ静かに風紋を刻むだけのその砂漠は、神の領域であると同時に恐るべき禁忌の場所でもあった。砂漠を犯す者には死を、砂の精の舞を見たものには狂気を。だが、塩の村に生まれた子供シェプシは、この紫の砂漠にこのうえなく惹かれるものを感じ取っていた。この世界の子供達は七歳になると、いっせいに聞く神のもとに集められ、告げる神によって「運命の親」と呼ばれる新しい両親のもとで仕事を覚えることになっている。働き手として期待されていない子供達のなかでも、シェプシはただ飽きることもなく砂漠を眺め、風の流れを読み、ときには砂漠と心を一体化させて時を過ごす、風変わりな子供として、そして普通の人とは違った丸い耳のできそこないとして、不当ないじめを受けて過ごさなければならなかった。

 なぜ、自分の耳は他の人の耳のようにとがっていないのか、なぜ自分はこれほどまでに紫の砂漠に恋焦がれるのか――自分でも説明のつかない想いを抱えつつ、それでも七歳になったシェプシは、自分たちを運命の旅へといざなう詩人とともに、いよいよ自分の「運命の親」を告げる聞く神の聖地、書記の町へ向けて出発する。その後にシェプシを、そして名前を捨てたと語る美しい詩人を待ち受ける悲しい運命も知らずに……。

 非常によく練られた物語構成だと言わなければなるまい。とくに、物語の核心にもつながる三神の神話、その信仰から生まれる世界の秩序の様子を、塩の村や砂漠といった情景、その季節の移り変わり、そしてそこに暮らす人々の日常生活をまじえながら、塩の村の巫祝や祈祷師の山に住むシェサ、そして名無しの詩人の口を通じてうまく物語のなかに織りこみ、読者に違和感なく物語の世界に入っていけるような配慮がなされている。見守る神と告げる神との間に取り交わされた砂漠の禁忌、その砂漠からやってきた聞く神と見守る神との力くらべ、その聞く神を連れてきたとされる、シェプシと同じ丸い耳をした書記のこと、そして聞く神が真実の恋を経ずに一ヶ月で産んだ子供のこと――すべての謎を解く鍵が、紫の砂漠の奥にあると確信したシェプシが、いずれは砂漠を旅することになるであろうことは、おそらく目の肥えた読者なら容易に想像することができるだろう。そして、この世界を構成する秩序の背後に、かつて地球からやってきた人々の影が見え隠れすることも。それは、あるいは使い古された物語設定であるかもしれない。だが、たとえばシェプシが偶然見つけた光る音響盤や、水金地火木土天砂死で構成される九つの月の存在などに、物語のなかに感情移入してしまった私たちがどことなく懐かしさを感じるのもまた事実である。そしてその懐かしさが、シェプシの感じる紫の砂漠に感じるある種の懐かしさとまじりあったとき、紫の砂漠に隠された真実は明らかとなり、私たちは前に進むことと、かつての故郷に回帰することとの葛藤に心を引き裂かれることになる。

 生まれながらに丸い耳を持ち、にもかかわらずこの世界を構成する紫の砂漠こそが自分の故郷であることを充分に理解しているシェプシは、それでもなお禁忌を犯して砂漠へと向かう。そういう意味でシェプシは、秩序を乱す破壊者としての役割を担っていたと言うことができる。なぜなら、世界の真実を知り、これまでの世界のありようを変えるために必要なのは、ときに既存の価値観を乗り越えることのできる、柔軟な思考力であるからだ。ただ、シェプシにとって不幸だったのは、彼が望む望まないにかかわらず、砂漠に惹かれる自分の心をとどめ置くことができなかったところにある。そう、シェプシはけっしてこの世界の秩序を乱すことを好まなかった。「真実の恋」を経てはじめて自分たちの性が決定される性の自由を持ち、神々の秩序により生まれた親による束縛からの自由を持つ、ある意味でユートピア世界の一例でもある、この世界を。そしてそれは、何より聞く神のもっとも望んだもの、守ろうとしたものでもある。

 私たちは生まれたときから性がすでに定められている。そして私たちは基本的に、産みの親の子供であり、そのくびきから逃れることはできない。現在、その常識ゆえに私たちがさまざまな問題を抱えていることは、言うまでもないだろう。著者はそうしたジェンダーや家族制度の問題の解決策として、ひとつの架空の世界を生み出し、こことは違った秩序により人々がどのように生きていくかを見守ろうとしたのではないか、とふと思う。そして、私たちは考えざるを得ない。自分たちの今の世界と、本書の世界と、どちらがより精神的に成熟した世界であるか、と。

 どんなものにも見つめるまなざしがあってこそ初めて意味があるのです。

 見守る神によって文字どおり見守られ、そして愛された本書の世界でシェプシが辿ることになる運命を、ぜひ見守ってほしい。そして著者が本書で表現しようとした、ひとつの可能性について、どうかよく考えてもらいたいものである。(2000.11.04)

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