【角川書店】
『謀略銀行』

大塚将司著 



 経済の世界は厳しい。いや、どのような分野の世界にしろ、そこでうまくやっていくというのはけっして楽なことではないと承知してはいるが、こと経済の世界に対して私がそのような意見をもってしまうのは、そこに金銭という要素が深く絡んでいることが大きい。それは、言い換えれば「金を稼ぐのは厳しい」というのと同じものがあるのだ。

 ところで、銀行というと一般の利用者にとっては自分のお金を預かってくれるところ、あるいは誰かにお金を渡したいときに、その本人の代わりをしてくれるところ、つまりはお財布代わりという意味合いが強いだろうと思うのだが、ただ人からお金を預かるだけでは、銀行は商売にならないばかりか、預金者に支払う金利分の損失が出ることになってしまう。そこで、銀行は集まったお金を企業や何らかの事業などに貸し付け、その利息分を得ることで収益を得る。預金者側とすれば、「人の金を勝手に融資するな」ということになるのだが、もし銀行を「安全にお金を預かってくれるサービス業」としてみなしているのなら、預金者は銀行にその手数料を支払わなければならない、ということになる。

 金利によって預金者を集め、集めたお金を融資することで利益を得る――ある意味で貨幣という約束事のみを利用したこの銀行の仕組みは、モノやサービスが何もないのに利益が出る、という意味では、非常によくできたシステムであるし、またそれだけ特異なシステムでもある。もちろん、そこには預金者の圧倒的な信用を得ている、という大前提が必要なのは言うまでもない。だからこそ「預金者保護」という理念が銀行にとって重要となってくるのだが、ともあれ半端でない現金が集中する銀行という場所は、それゆえにさまざまな思惑や陰謀が渦巻く場所ともなりえてしまう。

 本書『謀略銀行』は、そんなある銀行を舞台としたいわゆる経済小説である。日本でも金融自由化がスタートした1985年、東都相互銀行は日銀考査の結果、貸出金のうち二〇〇〇億円が不良債権として認定され、早急な経営再建を余儀なくされていた。業界では五位と大手に入り、午後八時まで営業するというユニークな経営方針で知られる銀行であるが、その実情は創業者である東条一族の私物と化しており、不良債権は膨らむ一方であったのだ。故東条義介の懐刀であり、現在東都相銀の監査役として事実上ナンバーワンの地位にいる井浦重男は、東条家の資本面での支配から逃れなければ、金融自由化の波を乗り切れないと判断、義介の長男であり副社長でもある東条秀一がにぎっている東都相銀株を取り戻したうえで、彼の一族がもつ優良資産を不良債権にあてるという方針を経営陣とかためる。

 不良債権と化した融資先である、東条一族の息のかかっているファミリー企業のうち、東都海洋クラブが所有する東都相銀株を取り戻すことには成功した東都相銀。だが、副社長の地位を追われた秀一は、残りの株すべてをある人物に売却するという手段に出る。経営再建のためにも、まずはその株を取得したいと考える井浦は、そのための方策を練るのだが……。

 経営再建をめぐる一銀行内の内紛――あくまで井浦を中心とする経営側とオーナー側との対立という構図ではじまったにもかかわらず、いつのまにか都銀上位行をはじめ、政治家や官僚といった面々がより大きな陰謀の仕掛け人として、井浦たちを追い詰めていくというのが本書の醍醐味であり、また物語の最後近くまでそうした陰謀の全容が見えてこず、表面上は何食わぬ顔でそうした陰謀にかかわっていたり、いつのまにかその陰謀の一端を担がされていたり、といった側面が妙にリアルなのも本書の大きな特長である。だが、それよりも私が気になるのは、ひとりの人間としての井浦の心情だ。はたして彼は、どういう思いで東条一族を切る方向での経営再建をめざしたのか。

 あくまで経済小説という側面で本書をとらえるなら、銀行業界というそれまでよく知らなかった業界の動向を読み物という形でわかりやすく伝えていることはたしかであり、またそのときの時代背景についてもある程度理解できるという点で、本書はその情報性を伝えることに成功した作品だと言える。だが、それでもあえて本書の登場人物たち、とくに中心人物たる井浦重男の人間性に目を向けたときに、そこにある種のロマンチストとしての意思を垣間見ることができるように思えるのは、はたして私だけだろうか。

 井浦は今でこそ東都相銀の顧問弁護士であるが、もともとは特捜部出身の検事で、「カミソリ井浦」の異名をもつ切れ者でもあったという過去をもつ。そして彼は、本書の中で何度も「行員のため」と言い、また自分たちの行動を「本当の正義」とも呼んできた。それは、井浦のそれまでの行動――仕手戦の失敗や政治家との癒着疑惑といった危機からオーナーである東条義介を守り、そのために違法すれすれのこともやってきた彼の行動からすれば、たしかに立派な正義だと言えるものである。だが、正義というきわめて抽象的な名称は、それゆえに今の時代においては胡散臭く見えてしまうのもまた事実だ。井浦は今回の経営再建を自身の「最後の戦い」であるとした。そしてそのために、東条一族を東都相互銀行の「悪」ととらえることで、彼は顧問弁護士としてではなく、かつて自身がそうだった検事として今回の経営再建をとらえていたのではないだろうか。「巨悪」を撃つことで、自身のこれまでの仕事を有終の美で飾りたい、という信念――そのあたりの心理が、私には生粋のロマンチストとして見えてくる。少なくとも、ビジネスマンとしてのそれではありえない。

 だが、言うまでもないことだが、「本当の正義」などというものはこの世に存在しない。それはある意味、過去に陰謀によって検事から排除された井浦自身がよく知っていることであり、まただからこそ東都相互銀行の顧問弁護士として、彼のいう「悪」に手を染めていた。物語の流れもまた、私たち読者もまた井浦=正義、東条秀一=悪という構図で本書を読みこんでいくように一貫した意図を感じることができる。だが、もともと井浦もまた「悪」なのだ。物語のラスト近く、内紛の趨勢が見えてきたころに、井浦が漏らす言葉は、それゆえに大きな意味と戦慄をともなうことになる。

「――いずれにせよ検察は悪人をどちらかに決める。真実かどうかは関係ない。悪人にしやすい奴を悪人にする。それが検察のやり方だよ」

 繰り返すが、銀行は預金者から集めた金を融資することで利益を得ている。ただ金を預かっているだけでは利益が出ないことは上述したが、「預金者保護」という建前が本書の陰謀の隠れ蓑のように使われている、ということのリアルさがそこにはたしかにある。金融の自由化は進み、今はもうない銀行のカードがいまだにATMで使えるといった状況に私たちはいるわけだが、その裏にどのような愛憎劇があり、どんな人たちが金をめぐる陰謀の渦中に書き込まれてしまったのか、その一端でも知りたい、という方は、ぜひ読んでみてほしい。(2008.09.10)

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