【角川書店】
『ベロニカは死ぬことにした』

パウロ・コエーリョ著/江口研一訳 



 たとえば、「ニート」と呼ばれる人たちのことを考える。基本的には就学、就労、職業訓練のいずれにも参加していない若年層の人たちのことを指す言葉であるが、日本ではもっぱら「引きこもり」とセットになって語られることが多く、学業や仕事といった社会的役割を果たさないまま、そのつながりを拒絶して部屋から出てこないといった否定的イメージが強い。そしてそのイメージは、あたり前のように学校に通ったり、会社で働いている多くの「普通」の人たちによって形成されたものである。彼らにしてみれば、なぜニートと呼ばれる人たちがそうした状態にあるのかを理解することができない。だが、一度見方を逆転させてみればどうだろう。世のニートたちは、なぜ私たちがあたり前のように学校に通ったり、仕事をしたりしているのかが理解できない。彼らには彼らなりの理屈や思いがあり、そうした行為に何ら価値を見出すことができないのでは、と考えたとき、私たちが考える「普通」とは、本当に普通のことなのだろうか、という疑念が頭をもたげてくる。

 ニートになっている理由は人によってさまざまであり、かならずしもひとくくりにして語るべきものではないのかもしれないが、少なくとも彼らの存在が社会現象となっているという事実は、同時に私たちの、この人間社会の異常性を映し出す鏡にもなっている。たとえば、人は学校で良い成績を納めなくても、あるいは仕事で成功して大金を稼がなくても死ぬことはない。だが私たちは、受験に失敗したり、会社をリストラされたりといった理由で自ら命を絶ってしまう人たちがいることを知っている。それはけっして「普通」のことではありえない。だが、私たちはそうした問題を見ないようにして、できるだけ考えないようにして生きている、とも言える。逆に、そうしたことに目をつぶっていなければ、まともに生きていけないのだとするのなら、そんな異常な社会に早々に見切りをつけ、ひきこもって生きることにしたニートたちのほうが、じつはよっぽど健全な精神をもっているのかもしれないのだ。

 人生でしたいことをほとんどやり遂げた時、彼女は、自分の存在にはもう意味がないという結論に達した。毎日が同じだからという理由で。そして彼女は死ぬことにした。

 『ベロニカは死ぬことにした』――それが今回紹介する本書のタイトルであり、また主役であるベロニカが、物語の冒頭でまず試みた行為でもある。そう、彼女は大量の睡眠薬を手に入れ、それを一気に服用して自殺をはかったのだが、その行為は失敗に終わった。彼女が次に目覚めたとき、自分が天国ではなく、精神病院にいることを知るのだが、ヴィレットと呼ばれるその施設には、本物の精神病患者と、何らかの理由でただ精神病のふりをしている者たちが共存している場所であった。

 自殺しようとしたベロニカが、なぜ狂人として精神病院に入れられることになったのか、そして旧ユーゴスラヴィアから分裂した国のひとつであるスロベニアに建てられた、さまざまな国や資本家たちの思惑のからむ、あまりよくない噂の絶えないこの精神病院で、いったい何が行なわれているのか、というミステリーとしての要素もなくはない本書であるが、じつのところ一番の謎となっているのは、ベロニカの自殺の理由である。というのも、彼女のそれまでの人生には、彼女を自殺させるような要素は見当たらないからだ。健康な体をもち、ボーイフレンドに事欠かない美貌があり、両親も健在、仕事も堅実で順調という二十四歳の女性であるベロニカは、しかしまさにそうした理由によって「死ぬことにした」と語る。

 今よりさらに年を経れば、おそらく流されるままに生きてしまうから、ますますおかしくなっていく世のなかに対して、自分の存在はあまりにも無力であるから、同じような毎日のくり返しに絶望したから――自殺の理由としてベロニカはいろいろな理由を挙げてはいるが、じつのところそのいずれも彼女の真意を伝えてはいない。逆に言えば、既存の言葉ではうまく説明できないような心理がそこにはたらいた結果として、ベロニカは死ぬ以外に道がないと追い詰められたということでもあるが、当然のことながら彼女の真意は周囲には伝わらない。ヴィレットの院長であるイゴール博士は、ベロニカの自殺の理由を「スロベニアを世界に知らしめるため」ととらえているが、それとてこじつけに近いものがあり、そもそも母国愛は彼女の真意とはもっとも遠いところにあるものだ。

 ベロニカにとっての死とはきわめて個人的なことであり、それは彼女にしかわからない、彼女だけの世界に属している出来事のひとつである。そして、彼女が狂人として精神病院に入れられた理由も、そこにある。そのときのベロニカは、自分だけの世界を生きており、その価値観は彼女以外の誰にも共有できないものであるからこそ、世界は彼女を「狂人」とみなしたということである。

「狂気とはね、自分の考えを伝える力がないことよ。まるで外国にいて、周りで起こっていることは全て見えるし、理解もできるのに、みんなが話してる言葉が分からないから、知りたいことを説明することもできず、助けを乞うこともできないようなものよ」

 ベロニカが入れられた精神病院には、彼女以外にも多くの人たちがいて、そして上述したように、本当に狂気や鬱に犯されている人たちと、そうであるふりをしている人たちが入り混じった状態にある。だが本書を読み進めていくうちに、読者はその境目がどこにあるのかがかぎりなく曖昧であることに気づかされることになる。大量の睡眠薬を飲んだ影響で心臓に回復不可能なダメージを受け、余命いくばくもないことを知らされたベロニカが、施設のなかで出会うことになる人たちは、彼女からすればとくに狂っているようではなく、ふつうに会話を交わすことができていたりする。ただ、彼らもまた彼らだけの世界を生きており、それは施設の外にある「普通」とは相容れないものであるという理由で、「狂人」とされてしまったというに過ぎない。

 だが、そもそも私たちは私たちだけの世界をもち、そのなかで生きているようなものだ。相手とどれだけ言葉を交わそうと、相手のことをどれだけ想っていようと、相手のことを完全に理解できるということはありえない。であれば、私たちは誰もがある程度は狂っているということであり、その境目は世の情勢や時代の趨勢によっていくらでも変わっていくものでもある。

 そんなふうに考えたとき、本書はある意味できわめて寓意的なものであり、また象徴的な物語だと言うこともできる。それぞれが独自の世界を生きながら、それでもなお互いに何を共有できるのか、あるいは何かを共有すべく生きることにどんな意味があるのか――そうした哲学的なテーマが内包されている本書は、それゆえに物語としては難解な部分もあるのだが、それは言うなれば、私たちの生きる世界の難解さの象徴でもあるのだ。

 かつて狂人は、社会的役割を与えられた存在であった。そればかりか、はるか過去には神の言葉を語るものとして尊ばれていた時代もあった。それを精神の病気と定義し、精神病院に隔離することで、私たちは「狂気」とは何なのかを知る機会を奪われた。こうして社会によって隠されたものは、日本では死刑制度をふくめて多々あるが、そうした隠されたものを考えるには、まずそれ自身に触れる機会がなければどうにもならない場合もあることを、本書は雄弁に物語っている。その冒頭で死ぬことを選んだベロニカが、しかしすぐに死ぬことができずに目覚めた精神病院で、残された時間をどのように過ごしていくことになるのか――それはおそらく、私たちの人生にも深くかかわってくるはずのものである。(2015.03.18)

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