【三修社】
『世界の測量』

ダニエル・ケールマン著/瀬川裕司訳 

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 物事の真実を追究するという姿勢について、ふと考えることがある。

 たとえば、本好きな私はミステリーについてもよく読むのだが、ある不可解な謎であったものが、探偵役の人間によってたったひとつの真実の姿を現わしていくという展開には、少なからぬカタルシスがあるものだ。今まで謎だったもの、闇に覆われて判然としなかったものが、真実の光によってその全容があきらかになっていく――それは、私たち人類の理性の勝利であり、人類は常に物事の真実の姿を追い求めることで、その文明をより高度なものへと発展させていったと言ってもいい。

 私たちにとって、わけのわからないもの、理解の外にあるものは、ひとつの脅威である。だが、それがどれだけ恐るべき力をもっていたとしても、その全容さえ明らかにすることができれば、対策をとることは可能だ。人間の理性によって解明されたものは、もはや人間にとっての脅威ではない。だからこそ、真実を追究する姿勢というものは、人を感動させるものがある。

 未知のものに対する飽くなき好奇心と、あらゆる謎を理解したいという欲求は、人間の精神をより高いところへと導くものだ。だが、と私は考える。ミステリーにおいて、その真相を明らかにすることができる人間が「探偵」という特殊な人間にかぎられているように、物事の真実を突きつめていくことができる人間もまた、ごく限られた人たちにのみ与えられた特権のようなものではないだろうか、と。

 フンボルトは興味深そうに見ている犬に向かって、世のなかに信頼の置けるものなど何ひとつないんだよ、と語りかけた。図表も装置も、宇宙さえも信頼はできない。無秩序を排除するためには、自分自身が正確であるしかないんだ。

 今回紹介する本書『世界の測量』は、そのサブタイトルに「ガウスとフンボルトの物語」とあるように、ふたりの主人公が登場する。ひとりは、カール・フリードリヒ・ガウス。幼少の頃からその非凡な才能を見せつけ、数学や天文学、物理学といった幅広い分野において大きな功績を残したまごうことなき天才、「科学の王者」とまで謳われるドイツ人である。もうひとりはアレクサンダー・フォン・フンボルト。同じくドイツの博物学者にして地理学者であり、当時未開の地であった南米大陸に渡り、自らの手で様々な動植物の調査をおこない、その正確な地図の測量を実施した探検家でもある。どちらも近代科学の分野において多大な影響をもたらした著名なドイツ人であるが、一八二八年にベルリンで開催されたドイツ自然科学者会議で、老齢に達したこのふたりの主賓が出会う場面からはじまり、そこからお互いの幼少からの人生を交互に描いていくという形で展開していく本書は、言ってみればふたりの偉人を題材とした伝記小説というジャンルづけとなる。だが、ここで問題となってくるのは、なぜガウスとフンボルトのふたりが選ばれたのか、ということであり、またこのふたりが『世界の測量』という本書のタイトルとどのような関係で結びつくことになるのか、ということでもある。

 本書を読みすすめていくとわかってくることだが、ガウスとフンボルトのふたりは、その考え方や行動様式においてひとつの対極をなす存在である。ガウスはとくに数学に対するたぐいまれな才能があったがゆえに、およそ直感的にさまざまな物理現象に対して、その公式や法則を導き出してしまうところがあった。世界は「数」という抽象であり、およそ世界のありとあらゆる事柄は、きわめて単純な公式によって表現できるという強い意思とともに、ガウスという存在があったと言っても過言ではない。彼が幼少の頃に、1から100までの数の総和をものの数分で導き出したという逸話はあまりにも有名であるし、その後もある惑星の軌道を計算し、次にどこの空に出現するかを正確に予測するなど、それまで未知のものであった事物に次々と真実の光をあてていった。

 いっぽうのフンボルトは、同じように未知のものに対して、自ら足を向け、観察と収集をおこなうという方法で、真実の光を導いた人物である。たとえそこが、人跡未踏の地であっても、彼には何の関係もないことだ。アマゾン川とオリノコ川を結ぶ水流があると言われれば、それが本当かどうかをたしかめるためにじっさいに川を遡って調査し、かと思えば、標高一万メートル以上もの山の頂上の高さを測量するために、現地の人間でさえ試したことのない登山を敢行し、また神聖だとされる洞窟にも潜っていく。発見したあらゆる動植物を貪欲に採集し、ときには墓にあった人の死体さえも持ち出したりする彼のバイタリティの強さは、かつて実験のために自分の体を切開するように命じ、痛みに対する覚悟さえできれば事物は理解できるという信念に裏打ちされるものでもある。

 同時代を生きた同国人であるふたりであるが、前述したように、彼らが出会うのは一八二八年のドイツ自然科学者会議でのことであり、若いころの彼らの物語のなかで、その人生の流れが直接交わることはない。あったとしても、ガウスが新聞でフンボルトの南米探検の記事を目にしたり、彼の兄と会ったりといった、きわめて間接的なものでしかない。にもかかわらず、彼らが同じ物語の主人公として同居しているのは、彼らの世界に対するこころざしが共通していたからに他ならない。十八世紀から十九世紀にまたがる時代を背景とする本書の世界は、近代科学が急速に発達しつつあるものの、まだその過渡期であるがゆえに、世界はまだまだ中世的な要素に包み隠されていた時代でもある。ガウスにとっても、フンボルトにとっても、世界というのはまだまだ「わけのわからないもの」なのだ。

 本書のなかで、ふたりはともに土地の正確な測量という作業に従事している。それは、これまで不正確でいい加減なものが多かった地理をより確実なものとするためのものであり、まさに本書のタイトルのように「世界の測量」を実施した、ということになるのだが、このタイトルは、たんに文字どおりの意味だけでなく、彼らがまさに「わけのわからない」世界を、人間にも理解できるもの、人類の秩序に世界を組み込むという、比喩的な意味も込められている。ときに独善的で、他人の迷惑を顧みず、まるで実直で真面目なドイツ人気質を体現するかのように、ひとつの目的に向かって猛進していくガウスとフンボルト――後に国際的な名声を得たふたりではあるが、その人生はひとりの人間として、幸福のなかにあったかといえば、けっしてそんなことはなかった。

 彼はこの瞬間、理性の活用を心がけている者など誰もいないということを理解した。人々は平穏を欲している。食べたいとか眠りたいとか、他人に親切にしてもらいたいとか思っている。だが、思考したくはないのだ。

 世界を理解したい、という強い欲求ゆえの孤独が、本書のなかには常につきまとっている。とくにガウスについては、他の人たちが自分と同じように思考しないという事実に、どうしてもいらだちを抑えられないところがあった。世界には真実の姿がある。事実、私たちの世界はそうした好奇心と欲求とによって、平面から球体へ、天動説から地動説へとその様相を変えてきた。だが真実というものは、必ずしも万人にとって必要なものではない。人々は、たとえ地球が丸かろうと平らだろうと、同じように生きてきたし、おそらくこれからも生きていく。ミステリーにおいて、探偵はその謎を解くという役割に縛られた存在だ。だが、それ以外の人間にはそれぞれの生活があり、たとえその謎が解けようと解けなかろうと、たいした違いはないのだ。

 そういう意味では、人々はただひとつの真実ではなく、それぞれが真実だと信じたいものを信じている。そうした「虚構」を生きるというのは、けっして罪ではないし、逆にそうした「虚構」がなければ人は生きてはいけない。真実とは、ときに残酷なものでもあるからだ。だが、それにどうしても納得できない者たちが、ガウスであり、フンボルトであった。たったひとつの真実、たったひとつの世界の形――彼らの生き様は、現代ではおよそ抱きようもない絶対的なものを、自らの内に体現しようとするかのようなものであり、だからこそ本書は読み手の心を打つものがある。

 はたして、この「世界」の真実を追究してきたふたりの偉人が出会うとき、そこにどのような物語が生じることになるのか。そしてふたりは、まったくの対極に位置しながら、同じ方向を目指してきたお互いに対して、どのような思いをいだくことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.03.25)

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