【中央公論社】
『ヴァスラフ』

高野文緒著 



『アンドロメディア』のアイや『ヴァーチャル・ガール』のマギーなど、最近は小説の世界でも、人間以外の登場人物が主役格として出てくることがずいぶん多くなったようだ。とくに、コンピュータ技術が凄まじい勢いで発達し、ネットワークが世界的規模で広がりつつある今日、仮想世界のなかでデジタル情報としてのみ存在する人工生命は、もはや普通の人間と同等に、いや、ときには人間以上の存在感をもって物語の中での役割を演じている。私たち人間を含めたすべての生命の設計図とも言えるDNA――その構造がたった四種類の塩基配列の組み合わせであるという事実、そして私たちが感じる現実の世界が、脳という装置による五官からの刺激に対する処理結果にすぎないという事実を知っている私たちは、0と1の二進数が支配するコンピュータの世界に、何か私たちの住む現実と似たようなものを敏感に感じとっているのかもしれない。

 本書『ヴァスラフ』の中に登場するヴァスラフも、コンピュータのなかでのみ存在するヴァーチャル・リアリティのキャラクターである。彼は(あえて「彼」と呼ぶことにする)ロシア帝国コンピュータ・ネットワーク管理局の研究室で、最新鋭のコンピュータテクノロジー「オプティカル三次元回路素子」の成果を示すソフトウェアとして生み出されたことになっている。なっている、と書いたのは、本書の冒頭を解釈するかぎり、ヴァスラフのそもそもの意識(あるいは原形と言うべきだろうか)は、どこかまったく別の次元に既に存在していたのではないか、と思えるからだ。
 本書は、ソフトウェアとしてのヴァスラフが、サイバースペース上の劇場において、すばらしい技量をもつ超一流のバレエダンサーとして華々しいデビューを飾ってから、彼の正体、つまりヴァスラフが架空の存在でしかないという事実の発覚、そしてロシア当局から危険因子と判断されたヴァスラフが、研究所という生まれ場所を失うまでの前編と、研究所から逃げ出してネット上のフリーウェアと化したヴァスラフと、サイバースペースに脳波によるアクセスを行なうハッカー<オデット>、そして<イワン皇太子>なる人物との関わりあいを描いた後編とに分けられる。
 ヴァスラフ自身は何かを物語ることはない。彼にできるのは、ただバレエを踊ることだけ。だが、彼の踊りはサイバースペース上の人間たちに、現実のどのような事物よりも濃厚で重々しい存在感を与える。生き生きと躍動する肢体、匂い立つような官能性――けっしてヴァーチャルな世界では感じることのないその圧倒的なまでの存在感は、しばしば仮想と現実を区切る壁をやすやすと飛び越えてしまう。

 そう、私たちは、物語の全編をとおして彼の存在を確かに感じ取ることができる。だが、あくまで架空の存在でしかない彼がやすやすと越えてしまう現実とは、いったい何なのだろう。いや、そもそもヴァスラフに、仮想と現実の区別という概念が存在するのだろうか。

 演劇などの舞台、という空間――ある意味、これほど現実からかけ離れた空間は他にはないだろう。そして、本書が採用した戯曲という表現形式は、考えようによっては本書の物語そのものが一種の仮想空間――サイバースペースであることを示唆するものではないだろうか。そう考えれば、何度も念を押すように「ヴィスラフには退場は許されない」と表記することも、そしてソフトウェアとしてのヴァスラフが存在することのない、現実の世界に生きるはずの登場人物たちが、しばしば彼の存在を感じ取ってしまうのもうなずける。さらに言うなら、本書の登場人物のほとんどが、名前を持っていないのである。

 これが? これが現実ですか? そんな馬鹿な。第一、この季節、外にいたら寒くないはずがない。だけど、さっきから私たちの息は白くもなっていない。そうでしょう? ――(中略)――私たちがここに存在するですって? 第一、私たちって誰です? 私たち、そう言えば名前さえないんですよ。存在すると言ったって、ここはどこです?

 本書の冒頭、序章ともいえる部分に、ヴァスラフ・フォミッチ・ニジンスキーという、かつて現実に存在した天才バレエダンサーの生涯を書き記した年表が、そして終章には彼に対する解説のような文章が載っている。当然のことながら、かつての天才バレエダンサー、ニジンスキーと、サイバースペース上のヴァスラフとは、さまざまな共通点こそあれまったくの別人である。これらの、一見物語とは関係なさそうな文章も、著者にとっては、ヴァスラフの存在感をより強めるための仕掛けのひとつなのだ。そう、私が上述した「別の次元」とは、かつて存在していたニジンスキーの内面に眠る集合的無意識なのではあるまいか、という考えから出てきたものなのである。

 本書のなかで言葉という交流方法を持たず、絶対の孤独にさらされながら、どの登場人物よりも強い存在感でもって舞台を跳びまわるヴァスラフの姿を、ぜひ一度見てもらいたいものだ。(1999.10.21)

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