【筑摩書房】
『裏ヴァージョン』

松浦理英子著 



 まったく何が楽しくてこんなとりとめもない短編集を書きつらねようと思ったんだか、と悩んでしまったじゃない。もっとも、厳密には短編集なんかじゃなくて、短編集に似せた一本の物語なんだけどね。あなた、いつの間にこんなひねくれた性格になったわけ? この七年間に、何があったかは知らないし、私もたいして興味なんかないけど、たしか世間一般の書評家たちは、あなたがこれまで書いてきた小説にはわりと好意的だったわけでしょ。そりゃあ、あなたの空想好きが暴走しただけのことだと思わなくはないけど、でも正直、SMやレズビアンといった、ときとして一部の人たちが異常な興味や嫌悪感、それにいやらしい妄想をかきたてるようなものを題材にしながら、そのなかに肉体的な快楽じゃない愛のあり方について描こうとしていたのは事実なわけでしょ? 私だって『親指Pの修行時代』の書評で、けっきょくは似たような感想を書いたわけだから、逆にそうじゃないと困るわけだけど、だけどよりによってこんな作品を書いてくるなんて。すっかりだまされてしまったじゃない。でもまあ、悪い気分じゃないわね。それは認める。ただこの小説、いったい何人が最後まで読んでくれるのやら。

 しかも本書のタイトルが『裏ヴァージョン』! まあ、これまでの作品が真正面から攻める、という意味で表だとするなら、たしかに本書は「裏」なんだろうけど、もうちょっとなんとかならなかったの? なにしろこの小説、最初のほうはどこかの名もないような小説家かぶれの人が、手慰みに書いたような短編が何作か並んでいるだけ。しかもそれぞれの短編の最後には、わけのわからない文句なんだかコメントなんだかがついてるし。こんなんじゃ読者は最初から困惑してしまうだけなんじゃないの? もっとも、さっき「小説家かぶれ」なんて書いたけど、まさかホントにそんな設定の人がその短編の裏にいるとは思いもしなかった。そう、本書はぶっちゃけた話、四十歳になるふたりの女性――高校時代に同級生だった、今は中年の女性ふたりによる往復書簡みたいなものなわけでしょ。

 とは言っても、ふたりは別に遠く隔たったところにいるわけじゃない。一方の女性がもう一方の家に居候させてもらっている。男女の関係で言うなら「同棲」っていうことになるんだろうか。でも同棲は普通、家賃とか折半するよね。私のときはそうだったけどどうなんだろう? なにしろふたりは女どおしで、けっして若いとは言えない年齢だ。めくるめくレズビアン的な愛があるわけでもなく、またその気になればいつでも会って話をすることができるのに、なぜか二人は同じ家にいても顔を合わせるようなことはないらしい。ただ、家賃代わりの短編小説を間に挟んで、ほとんど文句の言い合いとなっているコミュニケーションをとっている。これって、相当に変な設定だと思うんだけど? なんか設定のための設定っていう気がしない?

 でも、まあそれはそれでかまわないんだろうけどね。なんといっても本書に書かれているのは、ふたりのためだけの世界だし、ふたりにのみ通じるルールが成立しているんだろうから。そういえば、あなたの書く小説って、いつもその人たちのみで成立するルールがあったように思う。本書で言うなら、トリスティーンとグラディスが登場する小説。あれが典型。彼女たちはレズビアンでサドマゾな関係なわけだけど、その関係はどこか遊戯めいたところがあった。

 そんなふうに最初の時からグラディスとトリスティーンは、なるべく自然にSM性行為に入って行けるように芝居の台本を遣り取りしていた。――(中略)――SM行為に入るにはきっかけ、理由、筋道が必要で、だから二人で即興の台本を作る、一方が提示した台本をもう一方が了承してふさわしい科白を返せば事態が進行して行く、

 で、当然のことだけど、いち読者である私なんかは、このふたりの関係があのふたりの関係――ああもうややっこしいから「昌子」と「鈴子」にしておく。名前なんて、たいして重要じゃないんだけど――とオーバーラップしてしまうわけ。実際、本書の中で昌子と鈴子は何度か「質問状」だの「詰問状」だのといった、短編とさえ言えないような言葉のやりとりをしているんだけれど、それもなんだか相手を攻撃しようという悪意があって、というよりも、相手にかまってもらいたくて、でもその気持ちを相手に素直に言うのはあまりにも芸がなくて、それでお互いが合意の上で、口喧嘩をする、という仮想の現実を築き、その中で生きようとする作業のようにも思えてくる。
 そういえば、昌子の書いた小説のなかには、「ポケットモンスター」の世界の空想にふけったり、路上で妄想にふける人が登場するものもあったっけ。まさに現実と虚構の境ってところかしら。それともふたりのために用意された物語? ところでこのくだらない書評まがいの文章をわざわざ読んでいる人の中には、「なんて陳腐な」なんて思っている人もいるかもしれないけど、そもそも現実だって、物語の世界と同じく陳腐なもんじゃない? ひとりひとりが考えたり感じたりすることはけっして同じなわけないのに、たとえば国語のテストで「このとき彼はどのように思ったのか答えなさい」なんてナンセンスな設問を設けて、それで答えはひとつだけ。そして、それが教育だといまだに思っている人の多いこと! 多様性を無理やり押しこめてしまうようなところ、まさに陳腐化の暴力だと思うんだけど。

 本書の中で昌子と鈴子は四十歳、という設定になっているけど、この四十歳という年齢、ちょうど人生の真中あたり、折り返し地点とも言うべきところだけど、私としては、もしこの二人が若かったら、とふと思ってみるわけ。たぶん、あなたが今までに書いてきたような、めくるめくレズビアン世界が展開するんじゃないだろうかってね。「私はこのとき、はじめて自分が女だと思った」とかいう科白を言わせたりして。ここからは私が勝手に想像してしまうけど、年齢を四十歳にまであげたとき、それまでのパターンは当然通用しなくなる。そこでふたりが思いついたのが、書き言葉のやりとりというゲーム。つまり、グラディスとトリスティーンとのSM性行為のように、自らになんらかの役割を与え、その役を演じるという方法で、自分たちの間柄をつなぎとめておこうという行為になった。まあ、それは考えただけで凡庸な物語であること請け合いなわけだけど、それまでのSMとかレズビアンとかいった行為――これらもある意味、お互いが合意の上で行なわれる劇みたいなものよね――ではない方法で、一般的に言われているような愛や性的欲求を越えたところでの結びつきっていう、あなたの永遠のテーマを最終的には浮きぼりにすることに成功したことは、やっぱり認めなければならないんでしょうね。

 それにしても普通、小説というのは一般読者に向けて書かれるべきものであって、けっして誰か一人のために書くものじゃないでしょうに。にもかかわらず、こんなものが小説として成立してしまうのはどういうこと? それとも、万人に開かれた小説なんてものはただの幻想でしかない、とでも思っているのかしら。しかも本書そのものは、しっかりと一般読者を向いているわけだから、なんというか、もう返す言葉もありません。いろいろ不満めいたことを書いてきたけど、つまるところ、あなたの書いた『裏ヴァージョン』、あなたの小説世界を確実に広げることになったという意味では、大きく評価していることは覚えておいてほしい。わかった?
 わかったら、はやく帰って来い。(2000.12.30)

ホームへ