【メディアワークス】
『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』
−幸せの背景は不幸−

入間人間著 



 突然ですが問題です。
 あなたの住む町に、連続殺人事件と失踪事件が発生しました。
 どちらも犯人は捕まっておらず、このふたつの事件が同一人物の犯行であるかどうかも判明していません。が、あなたは少なくとも失踪事件の犯人を知っているし、連続殺人事件の犯人についても、おおよその犯人像をつかんでいます。そしてやっかいなことに、失踪事件の犯人は、あなたが大切に思っている人、どんなことをしても守ってやりたいと思っている人です。その人は、見ず知らずの子どもを誘拐し、自分の部屋に監禁しているのです。
 今のところ、その事実を知っているのは、あなた一人です。
 あなたは、どういう行動をとるべきでしょうか?

 1.警察に犯人の情報を流し、あとは知らんぷりを決めこむ。
 2.(可能であれば)犯人との関係を絶ち、何も知らなかったことにする。
 3.誘拐した子どもに自分たちのことを口止めしてこっそり解放する。
 4.犯人を説得して自首させる。
 5.犯人の代わりに、自分が犯人だといつわって自首する。
 6.誘拐した子どもを殺し、連続殺人犯に罪をなすりつける。
 7.犯人を殺して自首する。
 8.犯人を殺して自分も死ぬ。

 一応、下に行くほど難易度が上がり、また解決方法が過激になっていくように選択肢を挙げてみたが、当然のことながらどれが正解、というのがあるわけではない。犯人が子どもを誘拐した理由、犯人との関係や想いの深さ、犯人の性格や自分の性格、誘拐された子どもの状況といったさまざまな要素が複雑に絡み合うことで、どの選択肢をとるのか――あるいは結果としてそうなってしまうのかが変わってくるし、最初はある選択をしたものの、その後の状況によって別の選択肢をとらざるをえない、ということもありえる。

 人間の心理や言動というのはけっして一枚岩でなく、自分でもときに自分のことがわからなくなってくるほどに複雑怪奇なものだったりすることを、私たちは知っている。だが、それがフィクションである場合、まず真っ先に満たすべき条件はおのずと決まっている。それは、「連続殺人事件」と「失踪事件」のふたつに対して、主人公が何らかの形で決着をつけることだ。本書『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』は、言ってみればそうしたフィクション性を最大限利用することで成立する作品である。

 人間が最高に物事を楽しんでいる時の笑顔は、醜悪の一言に尽きるものだと。

 冒頭のクイズ形式の枕に本書の設定をあてはめてみると、問題の回答者としての立場にいるのが一人称の語り手「僕」であり、失踪事件の犯人が御園マユになる。連続殺人事件の犯人は、物語のラストにならないとわからない。今回、かなり特殊な形式で本書のあらすじを説明せざるをえなかったのだが、そうすれば、少しは本書を読んだときの違和感を説明できるかもしれないという意図がある。物語世界の住人にとって、失踪事件も殺人事件もまぎれもないリアルな出来事として起こっていることである。にもかかわらず、まるでクイズの出題であるかのような唐突さが、そこにはある。そしてその唐突さは、そのまま語り手と御園マユとの関係性にもつながっている。

 およそ何の前触れもなく語り手は同級生である御園マユの追跡をはじめ、何の前触れもなく彼女の住むマンションの部屋に割り込み、そしてそれが必然であるかのように、語り手は失踪事件の犯人が彼女であることを知る。むろん、本書が「僕」の一人称である以上、彼があたり前すぎて意識していないことをわざわざ描写する必要はないし、また彼の意識によって意図的に読者への情報を制限していることもありえる。語り手が自身の本名はもちろん、自分をあらわす人称すらできるだけ避けようとしているところはその最たる例だが、このような、物語の読み手への配慮を度外視した展開が許されるパターンが、ひとつだけある。

 それは、そもそも登場人物たちが私たち読者のよく知る、常識的でリアルな人間としての範疇の外にいる場合である。そして本書の場合、その異常性を読者に無条件に納得させる設定として登場するのが「かつての失踪事件の被害者」という要素である。

 八年前、約一年にわたって誘拐、監禁された子どもである「語り手」と御園マユという設定は、相当に強烈なものであるし、本書ではその強烈さを最大限利用することで物語として成立しているところがある。ようするに、彼らの心はどこか狂っている、という認識が、彼らのあらゆる言動につきまとう「なぜ」を払拭してしまうのだ。しかも、そんな反則スレスレの技を使いながら、最終的には「失踪事件」と「連続殺人事件」のふたつについて最良に近い方法で決着をつけてしまっているし、そこに至るまでの過程において、読者のミスリードを誘発する伏線やある種の叙述トリックなど、ミステリーとしての構造もひととおり揃えている。そもそも、語り手は文中でよく「嘘だけど」という言葉を吐くように、基本的に嘘つきという設定だ。そしてこの小さな「嘘」の繰り返しも、本書を読み解くひとつのキーとなっている。

「かつての失踪事件の被害者」という設定が大きな意味をもつ作品として、デニス・ルヘインの『ミスティック・リバー』があるが、本書は少なくともそうしたリアル路線とは無縁のものだ。むしろ西尾維新の『クビキリサイクル』における、語り手と玖渚友との関係こそが、本書におけるふたりの関係を髣髴とさせるものをもっている。彼らを結びつけるのはただひとつ、彼らの行動原理が「相手を守る」というただ一点のみに集約されていることに尽きる。

 フィクションの世界において、たったひとつの目的のためにすべてをなげうつ決意を固めるというシーンは、読み手を感動させるに足る要素のひとつだ。だがそのたったひとつの目的のために、たとえば大勢の人間が死んでしまってもかまわない、ということになると、呼び起こされるのは感動ではなくおぞましさである。遂行すべき目的はこのうえなく美しいのに、その手段が非人道的というパラドックスこそが、両作品に共通するものである。しかもここでいう「非人道的」という言葉は、どちらかというと語り手自身に向けられている。自分自身の痛みや死すらも度外視して、「相手を守る」という行動原理を貫こうとするためには、それ相応の決意なり覚悟が必要なことであるにもかかわらず、そこに至る過程さえも度外視されているのだ。

 本書において死とは解放である。そしてその解釈は、文字どおりの意味をもつ。死ぬことで終わることが許されず。かといってすべてが元どおりになるわけでもなく、壊れてしまったものをひきずって、それでも生きていくしかないふたり―― 一緒にいながら、けっして交わることのない道を歩いているかのようなふたりに、どのような救いがあるのだろうか。(2011.06.04)

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