【幻冬舎】
『うそ』

藤堂志津子著 



 まぎれもない、ほんとうの自分自身、というものについて、ふと考える。

 私が就職活動をしていたときに読んだ、ある就職マニュアル本のなかに、「人間は外見がすべてだ」と書かれたものがあったのを覚えている。本人がいくら声を大にして「自分はきれい好きな性格なんだ」と訴えたとしても、着ているものが薄汚いものであれば、誰もその言葉を信用しようとはしないだろう。逆に、どんなに普段ズボラな性格の人であっても、風呂に入り、髪を手入れし、びしっとしたスーツを身につければ、人はその人のことをきちんとした人間だと受けとめることになる。自分が本当はどんな人間なのか、自分自身にだってわからない場合が多いのに、ましてや赤の他人にわかるはずもない。人はどうしたって、外見や態度からその人のことを判断するしかないのだ。つまり、自分がどんな人間なのかを考えること自体、まったく意味がない、人が自分に対して抱いているもの――つまり外見こそがまぎれもない自分自身なのだ、とその本には書いてあった。

 会社で仕事をしているときの自分、盆と正月の年に二回両親に会いに行く息子としての自分、恋人と楽しい時間を過ごすための自分、そして八方美人男としての自分――私たちは知らないうちに、いくつもの顔を使い分けて世間を渡っていく、というテクニックを身につけた。それらの顔は、嘘や欺瞞、妬みといった、世の中に満ち溢れている悪意から自分の身を守り、他人に弱みを見せないようにするために用意された仮面のはずなのに、いざその仮面をすべて取り去ったとき、そこにはもしかしたら、何も残っていないのではないか、という恐怖を、あなたは感じたことはないだろうか。本書『うそ』を読んだときにまず私が感じたのは、そういった居心地の悪さであった。

 本書のなかには「レンタル家族」という、一風変わった商売が登場する。たとえば、単身赴任の男性の部屋へ、暖かい家庭を演じてくれる妻や子供役の人をレンタル派遣する、という発想のもので、言ってしまえば、どれだけ巧みに嘘をつきとおすことができるかが商売のすべて。葬式における「泣き女」と似たような仕事だと言える。大学生でありながら単発のアルバイトにあけくれ、ほとんど家に帰ることなく友達や、ときには通りすがりの男性の家などを泊まり歩くという、はなはだ不規則な生活をつづけていた相沢玉貴は、アルバイト先で知り合った角田悟にその才能を見込まれて、角田が考えていた「レンタル家族派遣会社」の経営を手伝うことになった。

 自分がどこで何をしていようがまったく意に介さない両親とは違い、自分のことが必要だと言ってくれた角田をはじめ、玉貴が探してきた、新興宗教にのめりこんでいる望月三郎、里子夫婦、その娘で聡明な志摩といった仕事仲間、そして根なし草だった玉貴を居候させてくれる、ゲイの戸川修平とヨークシァテリアのチャム――はじめて自分の力で築いた今の環境に、玉貴は満足していた。家族、親友、恋人――ともすると、のっぴきならない深い関係になりそうな要素は、玉貴の周囲には存在しない。あくまで仕事として「うその家族」を演じつづけ、女にまったく興味を示さない男と同居し、外ではゆきずりの男たちと愛のないセックスを繰り返す玉貴の生活は、ある意味非常に淡泊で、気持ち良いくらい割り切ったものだと言うことができる。だが、それは同時に、心を揺さぶられるような喜びや強い情熱といったものとは無縁の、味気ないルーチンワークのような生活でもある。

 私たちが生きているこの世界は、まさにうわべだけを取り繕った、非常に危うい世界である。「レンタル家族」に仕事を依頼する人々を見ていると、あらためてそんなことを実感せざるを得ない。葬式、結婚披露宴、入院見舞い――社会のなかで生きていくうえでどうしても避けられないイベントを迎えなければならない人達が、見栄や世間体、虚栄心といったものに突き動かされて依頼する「代理」家族、「代理」友人は、自分の弱みや引け目を覆い隠し、他人の悪意につけこまれないように被るいくつもの仮面とまったく同じ種類のものなのである。そんな彼らの、表面ばかり気にする態度を心の中で嘲笑しつつ、彼らの希望するシナリオを設定し、彼らのために嘘の人生を演出しつづける玉貴が、ふと自分自身を振りかえったとき、自分もまた、うわべだけのプライドをひきずっているという、なんとも言えない皮肉が本書にはある。そして、嘘っぱちのものに囲まれ、嘘をつきつづける玉貴が、他ならぬその嘘によって少しずつ追いつめられていく、という皮肉も。

 それにしても思うのは、家族として完全に崩壊してしまったにもかかわらず、絵に描いたような円満家庭を演じなければならない様子を描いた柳美里の『家族シネマ』にしろ、裁判所によって差し押さえられた物件を取り戻すために、赤の他人を集めて嘘の家族を演じさせていた宮部みゆきの『理由』にしろ、世の中に巧みに偽装されている「うわべ」を見抜く力、という点では、男の作者よりも女の作者のほうが鋭い感覚を持っている、ということだ。私はあくまで男であり、ここから先のことは推測の域を出ないものであることを承知で言うなら、男中心の社会が長く続いた日本という国で、本来の自分を隠し、男が好むような「女らしい女」を演じさせられていた女性たちは、地のままの自分でなぜ幸せになることができないのか、という素朴な疑問を、おそらく男性よりも深刻に悩んできた、という背景があるからではないだろうか。

 整形によって美しい顔を手に入れて結婚する河田チカ子の「レンタル友人」として、スピーチをすることになった玉貴は、そのスピーチの途中で「突然、これまで味わったことのない切実さ」に襲われ、目頭を熱くするというシーンが、本書にはある。

 河田チカ子に幸せになってほしかった。チャムも幸せになって。志摩ちゃんも社長も修ちゃんも。そして、ホームレスになったかもしれない兄ちゃんにも。

 外見だけですべてを判断してしまう人々、うわべだけで成り立っている社会――もし、そんな世界に真実というものがあるとするなら、それはいったいどういうものなのだろう。そして、そんな世界で生きていかなければならない自分に、はたして「本当の自分」などというものが必要なのか? それは、本書のラストで玉貴がとった行動から、読者が自分で判断するしかないのだろう。(2000.06.15)

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