【文藝春秋】
『うらなり』

小林信彦著 



 私もひとりの人間である以上、自分の正しいと信じる道を迷うことなく突き進んでいきたいものであるし、一度こうだと決めたことを、つまらない世間体や損得勘定などで曲げたくはないとも思うのだが、けっして長いとはいえない自身のこれまでの人生を振り返ってみて感じるのは、人生とはけっきょくのところ、自分のなかの何をどれだけ妥協するか、その積み重ねによって刻まれていくものではないだろうか、という身もふたもないようなものだったりする。

 人はひとりでは生きてはいけないし、そうである以上、どんな人間であってもお互いに助け合えるような関係を築いていけるのが理想的なのはわかってはいるが、そうした理屈とはまったく別のところで、どうしても合わない人、関係などもちたくもない人というのは必ず出てくるものである。だが、社会人のひとりとして生きていくうえで、個人的には気に食わない人たちとつき合っていかなければならないこともあるし、ときには嫌な事実について、あえて目をつぶらなければならないことだって出てくる。かといって、そのことにいちいち反発し、気に入らない人と衝突を繰り返していたら、まともな社会生活が送れずに孤立してしまうことになりかねない。だからこそ、ストレスに悩まされる人というのは今でも後を絶たないわけだが、そんな世の中の生きにくさを書くことに長けていた作家のひとりとして、夏目漱石を挙げることができる。

 本書『うらなり』は、夏目漱石の作品『坊っちゃん』に登場する英語教師――語り手である主人公に「うらなり」というあだ名をつけられていた人物を主体に据え、彼の視点から『坊っちゃん』のなかで起こった出来事を描いていくという内容であり、そういう意味では『坊っちゃん』のオマージュともいうべき作品である。それゆえに、本書は『坊っちゃん』も合わせて読んでおくとより深く味わうことができるものでもあるが、この「うらなり」という人物、『坊っちゃん』のなかでは影が薄いうえに、校長や教頭の策略によって勤めていた学校を不当に転任させられてしまい、物語の途中で姿を消してしまう人物だったりする。

 『坊っちゃん』の物語構造において、登場人物は主人公たる「坊っちゃん」と数学教師の「山嵐」のグループと、校長の「狸」、教頭の「赤シャツ」、その腰ぎんちゃくである画学教師「のだいこ」たちのグループのふたつに分けられ、このふたつが対立し、衝突することで物語が進んでいく。このなかにおいて「うらなり」に与えられた役割は、教頭たちのグループによって不当な扱いを受けた被害者としての位置づけだと言える。じっさい、『坊っちゃん』の最後は主人公と「山嵐」が「赤シャツ」と「のだいこ」の歓楽街通いの尻尾をつかみ、鉄拳制裁をくわえるという溜飲の下がるものであるが、そもそもの被害者である「うらなり」の視点によって描かれる、もうひとつの『坊っちゃん』ともいうべき本書の注目すべき点は、彼の「坊っちゃん」という人物に対する捉えかたと、原作である『坊っちゃん』がもっている「坊っちゃん」像とのギャップにこそある。

 昭和九年、50を過ぎた「うらなり」こと古賀が、「山嵐」こと堀田と東京で再会する、という形で物語が進む本書のなかで、古賀にとっての「坊っちゃん」は、人生のほんの一時期にかかわることになった、名前も最初にかわした言葉もうろ覚えの人物でしかなく、いかにも江戸っ子の若者らしい、世間知らずで独善的な人物、という位置づけとなっている。これは、原作『坊っちゃん』における、自分の都合も顧みずに教頭たちの不正を糾弾した好人物、という位置づけとは多少異なるものだ。もっとも、古賀はその顛末を直接は知らない立場ではあるが、それでもなお彼にとっては、知り合って間もない間柄でしかないにもかかわららず、なぜそこまで自分に同情し、教頭たちの行ないを憤るのか、理解に苦しむ存在として、「坊っちゃん」をとらえている。

 原作をよく知る読者にとって、「坊っちゃん」はあくまで「赤シャツ」といった、いかにも嫌味な人物との対比としてとらえられるものであり、それゆえに「坊っちゃん」は好人物に映るわけであるが、じつのところ「坊っちゃん」自身、その言動においてはけっこう問題が多く、良くも悪くも子どもっぽいところのある人物である。本書における古賀のとらえかたは、ある意味「坊っちゃん」をもっとも客観的に見たものであると言える。むしろ、古賀の人生において「坊っちゃん」の存在がきわだつのは、「マドンナ」との絡みによるところが大きい。

 つまり古賀にとって、かつて教師として勤めた四国の学校での生活において、もっとも印象に残っているのは、あくまで「マドンナ」との関係に帰結するものであり、「坊っちゃん」は彼の物語においては脇役でしかないのだ。それゆえに、本書では「坊っちゃん」がじっさいに登場することはなく、「マドンナ」との思いがけない再会のほうが物語のメインとして進んでいく。かつて、「坊っちゃん」が教頭に対して糾弾した「マドンナ」との関係――そしてそのときのころを思い出すにつれ、今もなお彼女に対して淡い想いをいだいている自分に気づいた古賀にとって、「マドンナ」との再会はいったい何を彼にもたらすことになるのか。

 それにしても見事なのは、「坊っちゃん」につけた「五分刈り」というあだ名の微妙なセンスにしろ、何かと腰が低く、あまり強く自分を押し出すことができないがゆえに、余計な苦労をしたりするその人生模様にしろ、まさに『坊っちゃん』から後の「うらなり」が生きてそこにいる、という実感である。昭和初期という、カタカナ語がハイカラだった時代の雰囲気を崩すことのない、しかしけっして読みにくいわけでもない文章にしても、言葉を厳選している雰囲気があり、それゆえにあっさりと読み進めていくことができるが、このあたり力量はけっして侮れないものがある。

 言うまでもなく、『坊っちゃん』というのは夏目漱石が書いた小説のタイトルであるが、そのなかで「坊っちゃん」と呼ばれる語り手は、他人には絶妙なあだ名をつけたがるくせに、他人から自分が「坊っちゃん」と呼ばれることに激怒する。勝手といえば勝手な話であるが、『坊っちゃん』というタイトルは、まさに彼のそんな性質をこのうえなく言い表していると言うことができる。本書のなかで古賀もまた、自分が「うらなり」と呼ばれることについて、あまりいい顔はしないものの、もともと顔色が悪く、覇気のない性格を自覚しているところがあって、仕方のないことだと半ばあきらめているようなところがある。そして、そんな彼の『坊っちゃん』以後の人生もまた、まさに「うらなり」らしいものがある。

 最初に出会った湯治場で病気ではないかとぬけぬけと訊いてきた「坊っちゃん」――本書を読み終えた読者は、彼のその指摘がいろいろな意味で「うらなり」のすべてを言い当てていたことに気がつくことになるだろう。(2006.09.27)

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