【新風舎】
『下り階段をあがれ』

新田好著 



 私は、あるいは「読書狂」と呼ばれるような人間かもしれないが、「映画狂」と言われるほど映画を観ているわけではない。だが、映画の面白さ、素晴らしさといったものであれば、私も知っているつもりである。たとえば、トルナトーレ監督の名作『ニュー・シネマ・パラダイス』が、古き良き映画館全盛時代の雰囲気を、数多くの名作映画のワンシーンとともに、情緒たっぷりに伝えることで名作たりえているのであれば、私にとっての名作映画は、山田洋次監督、西田敏行主演の『虹をつかむ男』ということになるだろう。
 まだテレビが家庭に普及していなかった頃、映画館が娯楽の王様として君臨していた時代から営業をつづけてきた「オデオン座」館主"活ちゃん"の、映画に対する無尽蔵の愛と、人情もろい性格がもたらす苦労と感動をあますところなく盛りこんだその映画でも、私が観たことのある映画がいくつも登場していて、まさに映画好きの人にはたまらない内容だろう、と想像することができる。そして何より、この映画は数多くの映画をその中で紹介していながら、それらの内容をまったく知らない人であっても充分に楽しむことができる、という特長を持っているのだ。

 さて、本書『下り階段をあがれ』は、ある映画好きな少年、新田広志が体験した、ちょっと特別な意味をもつ四ヶ月間を日記形式で綴った小説である。そして、「ぼくの映画狂時代」というサブタイトルからもわかるように、本書ではその広志少年がほとんど毎日のように観ている映画(といっても、テレビで放送される映画であるが)のちょっとした感想、という形で、じつに多くの映画が紹介されている。詳しい数はわからないが、一日一本の映画を観たと考えても、四ヶ月で約百二十本。これだけの映画を二百ページの小説で取り上げていること自体、驚嘆すべきことだと言えるだろう。

 もちろん、本書はたんなる映画紹介小説というわけではない。もうすぐ中学三年を迎えようとする三月末に、広志の家に突然やってきた、高校生のさゆみさん――遠い親戚だということ以外、どういう事情があるのかわからないまま一緒に暮らすことになった彼女は、広志にとってははじめて「異性」であることを意識させる存在としてその心を悩ませるという、少年の淡い恋心と成長を描いた青春小説だと言うこともできる。

 思春期という、子どもでも大人でもない微妙な時期に体験した出来事が、その後の人生において非常に重要な位置を占めることもある、という点で、映画と青春というふたつの要素がじつに相性の良いとりあわせであることは、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』や『虹をつかむ男』を観た人であればうなずけることと思う。広志もまた、『リオ・ブラボー!』や『頭上の敵機』、『ステイト・フェアー』といった映画を観るたびに、さゆみさんと過ごした日々を思い浮かべるであろうことが、手にとるようにわかるからだ。そういう意味で、映像と音で人々の心を揺さぶる映画という表現形式は、小説以上の魅了をもっていると言うことができるだろう。そして本書もまた、そのような映画の魅了を伝えたい、という想いに溢れているのはまぎれもない事実であるが、ここでひとつ問題となるのは、映画で映画を紹介することと、小説で映画を紹介することとの間にある、絶対的な壁である。

 言うまでもないことであるが、映像と音という要素は、同じ人間の想像力でも、より具体的なイメージを助ける役割を持つ。たとえば、その映画について観る側が何の知識も持っていなかったとしても、映画のなかでその映画のワンシーンを見せるだけで、観る側はそれがどんな感じの映画なのかくらいは簡単に想像することができるのだ。だが、文字だけで勝負する小説では、その映画のタイトルを書くだけでは、知っている人はともかく、知らない人には、映画を観るようには想像しにくいというのが現実である。これは何も映画のタイトルに限ったことではなく、例えば曲のタイトルや小説の題名といったものでも同じことであり、これは小説という表現形式が抱えるどうしようもない弱点だと言えなくもないのだが、その弱点を、本書では概要説明などで文章を費やすことなく、あくまで中学生の日記形式であることを前提に、簡潔にすましてしまうのだ。たとえば、こんなふうに。

 深夜、クリフ・ロバートソンの『まごころを君に』を見る。
 このアイデアは一体どこから来たのか。原作のダニエル・キイスはすごい。

 そして、その圧倒的な情報量の不足を補うあらたな想像力の材料として用意されているのが、広志がいっぽうでつけている「映画狂時代」という名のノートである。このノートの内容は本書では触れられることはないが、そこにはタイトルや監督、俳優のほかに、感想を書く箇所も設けてあり、広志は律儀に観た映画すべてをこのノートに綴っている、ということになっている。そして読者は、常に本書の裏に存在する「映画狂時代」ノートにつけられているであろう感想を想像することで、彼が観た映画を想像することができるようになっているのだ。著者がその構成の妙をどこまで意識していたのか、そしてその効果が実際にはどれほど力を発揮しているかはともかくとして、その構成を楽しむためだけに本書を読んでも、けっして損はないと言ってもいいだろう。

 レイ・ハリーハウゼンの『シンバッド/七回目の航海』を「シンドバッド」だと思いこんでいたことや、ベストテンを選ぼうとして気がつくと、みんな西部劇ものとなっていたり、『シェーン』のラストで去っていったシェーンが、本当にのこのこ戻ってきたらどうなるかを想像するところなど、映画好きな人には笑いを誘う場面も盛りだくさんだが、もちろん、広志とさゆみさんとの距離がどういう過程を経て近づいていくのか、広志のさゆみさんへの想いははたして伝わるのか、そして、さゆみさんが抱える秘密とは何なのか? といった要素も見逃せない本書、はたしてあなたは、青春小説として読むか、それとも映画狂小説として読むか?(2001.01.28)

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