【幻冬舎】
『上と外』

恩田陸著 



 人生は、何もしないでいるには長いが、何かをやりとげるには短い。

 この言葉を否定できる者は、おそらく誰もいないに違いない。そしてこの言葉は、人間の人生における心理のひとつであると同時に、私たち人間が、根本的なところでは行動する生き物であることを指し示してもいる。人は良きにしろ悪しきにしろ、無為な日々、単調な生活の繰り返しに耐えられるほど強いわけではない。自らの意志で考え、行動することによって、何らかの変化を招きよせていく――そうやって生きている間に積み重ねていくものが、私たちの人生そのものである。ただ待っているだけでは、現状はなんら変わらないし、なによりけってし前に進むことはない。何かを変えていくためには、前に進むためには、とにもかくにも自分から動いていかなければならないのだ。

 そういう意味で、「通過儀礼」というのは、今自分が立っている場所から別の場所、たとえば子どもの世界から大人の世界へと移り変わっていくために果たさなければならない、大きな「行動」だと言うことができる。今でこそ形骸化してしまった感のある「成人式」であり、私たちはともすると、知らないうちに大人になってしまったところさえあるのだが、そもそも子どもの世界と大人の世界には、強固な境界があるのが普通であり、その境界を「乗り越える」ための何らかの試練や儀式というのは、まさに子どもたちが自分の意志で考え、行動することのはじまり、つまり一人前の大人へと一歩近づくためのものでもあるのだ。

 中央アメリカのG国で古代遺跡の発掘調査をしている父、楢崎賢のもとへ、家族が集まって一家団欒の一週間を過ごす夏――本書『上と外』という作品は、その「一家団欒の一週間」の最終日に突如おこったクーデター騒ぎによって、子どもたちふたり、14歳の少年練と、その妹千華子がジャングルのまっただなかに放り出されてしまう、というストーリーで物語が進んでいく。自分たちが今どこにいるのか、そしてどこへ向かえばいいのか、ほとんど頼るもののないこの未開のジャングルのなかで、ふたりははたしてどうやって生き延びていくのか。それまであたり前だった日常から、急転直下的に非日常へと叩き込まれ、息つく間もなくふたりを襲うさまざまな試練を乗り越えていく、という意味では、典型的な冒険小説であり、またある種のファンタジー小説でもあるのだが、この楢崎一家の身にふりかかった災難全体がひとつの「通過儀礼」であると考えたとき、この物語の大きな構造が見えてくるようになる。

 そもそも練たちの家族4人は、なかなかに複雑な事情をかかえている。彼らはたしかにひとつの家族であるにもかかわらず、父は一年の大半を海外で過ごし、練は父方の祖父母の家に預けられている。そして母千鶴子と千華子はといえば、今はまったく別の場所で生活をしている。そう、賢と千鶴子は何年も前に離婚し、父が練を、母が千華子をそれぞれひきとって、分かれて暮らしているのである。しかも、千鶴子は今度、三回目の結婚を控えており、場合によっては今回が練と千華子が家族水入らずで過ごせる最後の日となるかもしれないのだ。

 家族というには、現実の距離的にも、心情的にもあまりにも離れてしまっている4人――本来なら、誰かが何らかのアクションを起こさなければならない状況であるのだが、賢は豪快で気さくな性格ではあるものの、そのある種のものわかりの良さと、なにより考古学への情熱ゆえになかなか家族を省みることはないし、千鶴子は気が強くで自分の欲望には忠実に生きるタイプであり、それゆえに今もなお新たな恋を追いかけつづけている。そして、そんな大人の身勝手な欲望になかば振り回されるようにして生きてきた練と千華子は、年に一度のこのイベントで、自分たちが良い息子であり、良い娘であることを演じるため、飛行機の中で黙々とオセロゲームをつづける。こうした歪んだ形の「通過儀礼」を行なわなければ、4人は家族として成立しないのだという様子を、本書は冒頭でしっかりと表現している。それはけっして明るいものではない。むしろ、泥沼といっていいほどどんよりとした空気が、そこにはある。

 たったふたりの子どもたちが、中央アメリカのジャングルのただなかに放り込まれるというシチュエーションは、正直なところリアリティがあるとは言いがたい。だが、ここで重要なのはそうしたシチュエーションのリアリティではなく、それまでなんらかの問題をかかえていながら、それを見て見ぬふりをしていた家族4人が、なかば強制的に何らかの行動を起こさざるを得ない状況に陥った、という事実である。本書では、練や千華子の視点から語られる部分と、賢や千鶴子の視点から語られる部分とが平行して物語が進んでいくが、親と子が、それぞれお互いとふたたび会うために、とにかく行動を起こしていく、という意味で、本書はこの家族が真の意味で強く結びつくための「通過儀礼」として機能しているのだ。
 そしてさらにいうなら、そうした「通過儀礼」のための行動は、今回起こったG国のクーデターそのものとも結びついていく。

「我々の構成員は、ごく一部の思想や主義に基づくものではありません。我々の政府、そして国家の構成員は、言うなれば『あなたがた』なのです。我々は、世界を構成する『あなたがた』の政府なのです」

 現在、世界のあちこちで紛争の火種となっている、民族という枠組み――そうした枠組みが抱える大きな壁を乗り越えて、これまでにない新しい国としての第一歩を踏み出そうとしている今回のクーデターもまた、とにかく現状を変えていくために行動を開始した者たちである。楢崎一家が巻き込まれた今回の事件は、言ってみればクーデターを引き起こした者たちのせいであるのだが、楢崎一家と、クーデターのグループたちは、「通過儀礼」のために行動を起こした、という意味では同じ部分でつながっているのだ。そしてこのふたつが結びついたとき、物語はより大きな流れへと読者をはこんでいくことになる。

 もちろん、こんな難しいことを考えずに、たんに練と千華子がどのようにして危機を切り抜けていくのか、そのハラハラドキドキの連続を楽しむだけでも充分読み応えのある作品であることは、言うまでもない。練の祖父である久や、ジャングルの中で出会い、練を「成人式」の危険な儀式に参加させるよう仕向けたニコラスをはじめとした、登場人物たちの個性溢れる人物像も魅力的だ。ただ、本書はたんなる冒険小説としてだけでなく、何かが変わっていくひとつの大きな流れを描いた小説としても、おおいに評価すべきものを持っていると言うことができるだろう。(2004.03.21)

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