【新潮社】
『ある秘密』

フィリップ・グランベール著/野崎歓訳 



 患者が医者に望むことは、病気や怪我で傷ついた自身の体を救ってもらうことであって、患者といっしょにその痛みを嘆き悲しむことではない――大きな悲劇やつらい出来事は、しばしば私たちから行動するための力を奪うものであるが、それと同じくらい、いやそれ以上にやっかいなのは、ある不幸に対して、直接関係していない人たちが、自分にも何かできることがあるのではないか、という親切心から、ついつい自分の本来の役割から逸脱した行動をとろうとすることである。

 ある出来事を、まるで自分のことのように悲しむことのできる心は美しく立派なものであるが、そのことと、たとえば医者でもないのにあたかも医者であるかのようにふるまおうとすることとはまったくの別問題だ。仮に、交通事故の現場に居合わせたとして、貴方ならどうするだろうか。もし貴方が医者であるか、その知識に精通している立場の人間であるなら、怪我をしたかもしれない人に対してきちんとした応急処置を施すべきであるが、そうでないのなら、早急に救急車と警察を呼ぶべきであり、逆にそれ以上のことはすべきではない、とも言える。なぜなら、医学や応急処置の知識のない者が、下手に患者に何か施すことは、かえって患者を危険な状態にしかねないものだからである。

 私たち人間は、何もかも自分ひとりの力でできるわけではないし、それゆえに起きてしまったあらゆる結果に責任をとれるわけでもない。怪我人を前にして、医者でもない人間が、その痛みを取り除くことができないからといって、そのことで自分を責めるのがナンセンスなのと同じことだ。医者が患者を治療する役目を負っているように、私たちにはそれぞれできることとできないことがあり、できることよりもできないことのほうが圧倒的に多い以上、私たちは、私たちのできる数少ない役目を精一杯果たしていくしかない。それが――おそらく人として生きるということへとつながっていくはずである。

 何よりそのタイトルが指し示しているように、本書『ある秘密』は、一人称の語り手である「ぼく」の家族にまつわる秘密がメインとなって展開していく作品であり、また作品中に「グランベール」という姓のつづりについて言及していることから、著者の自伝的要素を含んでいる作品でもある。舞台となるのは、1950年代のパリ、その一角でスポーツ用品の卸売りを営む両親は、ともにスポーツマンであり、鍛えぬかれた健康的な肉体をもつ自慢のふたりだったが、それと比べてあまりにもやせっぽっちで貧弱な体つきの「ぼく」は、そのコンプレックスゆえに、力強い体をもつ想像上の兄を生み出して遊ぶということを繰り返してきた。だが、ある日、母とともに屋根裏部屋に上がったときに、偶然見つかった小犬のぬいぐるみは、「ぼく」にかつて兄が実在したことを示す証拠として彼に迫ってくることになる。

 自分の想像の中にしかいるはずのないと思っていた兄が、かつてはまぎれもないひとりの人間として、この世に生きていた、という事実――両親はなぜその事実をひた隠しにしていたのか、そのつもりであるなら、なぜ兄の持ち物を今なお捨てずにとっておいたのか、そして何より、兄は生前どのような運命をたどることになったのか。物語は、両親が秘密にしている事柄の痕跡を少しずつ提示しつつ、あくまで自分がひとりっ子であることを前提とした両親の馴れ初めの物語――幼い「ぼく」が想像していた理想の家族の物語――を書いたのちに、十五歳になった「ぼく」が長く世話になっていた施療院のルイーズから、自分が生まれる前に起こった、両親とその親戚にまつわる悲しく残酷な「秘密」について話を聞く、という展開をたどることになる。

 物語自体の「秘密」へのアプローチの仕方は、その冒頭から匂わせておきながら、非常に注意深く進められていく。そこにあるのは実在した兄の存在だけでなく、彼らがユダヤ人であるという「秘密」についても少しずつ触れられていく。姓のつづりの問題、割礼の跡、遅い時期の洗礼――たしかに、そこには何かしらの隠された「秘密」がある。そして、それがユダヤ人と第二次世界大戦とに関係することであれば、どんな読者であってもそれがナチスにかかわる事柄であろうことが想像できるようになっている。だが、ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺はあくまで歴史的事実であって、秘密でもなんでもない。本書のなかで本当に重要なのは、そうした悲惨な歴史的事実に否応なく巻き込まれた両親が、その息子である「ぼく」にけっして気づかれてはならない、またふたりから言い出すことも許されない「秘密」を抱え込まなければならなかった経緯にこそある。

 もちろん、この書評になかでその「秘密」について触れることはしない。だが、ひとつだけたしかに言えるのは、その「秘密」を知った語り手の、すべてをありのままに受け入れて、それでもなおひとりの人間として生きていこうとする強い意思が、本書のなかにはたしかに息づいている、という点である。そういう意味で、本書はけっしてたんなる著者の自叙伝などではない。もしそうであるなら、「ぼく」が幼い頃に想像した両親の馴れ初めの話など、わざわざ本書のなかに組みこむ必要はなかったはずなのだ。

 著者はただ、「ぼく」の虚構の話と、「秘密」にされてきた本当の出来事を――存在することを否定された兄と、もうひとりの母親のことを、物語として提示する。そこには、結果として「ぼく」をだますことになった両親への非難も、ずっと真実を知らされずにいた自身への憐憫もない。あるのはただ、深い悲しみと、人間がほかならぬ人間であることの業だけだ。淡々と、ただ静かに打ち明けられていく、ひとつの「秘密」――しかし、その事実が「ぼく」にとってどれほど衝撃的なものであったのかについては、彼の両親にまつわる虚構と真実のふたつの物語が、どちらも同じ重みをもつ話として語られていることからもあきらかである。その構造はそのまま、真実だと信じたい虚構と、あまりにも重い真実との底知れぬ葛藤を、この上なく饒舌に物語っているのだ。

 人は誰もが幸せになりたいと願うものだ。だが、その幸せが誰かの不幸や犠牲によって成り立ったものであるとしたら、はたしてその人は、自身の今の幸せを素直に喜ぶことができるだろうか。幸福を願う気持ちと、不幸を嘆き悲しむ心、そして人間が人間であるがゆえに逃れることのできない利己主義と、そんな心のありようを嫌悪する罪悪感――本書のタイトル「ある秘密」という簡便な言葉のなかに、これほど多くの意味と、心の葛藤と、まぎれもない人間の生きる姿を盛り込むことのできた作品を、私は他に知らない。本を、読書を愛するすべての人にぜひともお勧めしたい作品である。(2007.02.06)

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