【幻冬舎】
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』

重信房子著 



 この印象的な、ある意味では詩的でさえあるタイトルをつけられた本書は、じっさいには法務局宛に書かれた上申書であるという。何を申し上げているのかと言えば、自分がたしかに娘を産んだ母親であり、メイと自分は血のつながった親子である、ということ。そのとき、娘のメイは27歳。つまり、それまでのあいだ彼女は日本人として存在しておらず、ゆえに彼女たちは戸籍上の母子関係でさえなかった、ということになる。そして当の母親は、警視庁の留置所にいる。あきらかに、正常とは言いがたい事態であるのだが、他ならぬその母親が重信房子――日本赤軍の最高幹部としてレバノンに渡り、一貫してパレスチナ側に立って武力闘争を繰り広げてきたテロリストであったことを考えれば、納得がいくのではないかと思う。つまり、国際指名手配された犯罪者であり、また自身の身が常に危険にさらされているがゆえに、大手をふって親子であると明かすわけにはいかなかった、という事情である。

 1973年に生まれた私にとって、全共闘時代というのはすでに過去の遺物であり、その後に誕生した日本赤軍、あるいはその前身である赤軍派や、有名なあさま山荘事件を引き起こした連合赤軍などについては、教科書レベルの知識しか持ち合わせていなかった。ましてや国際的なテロ活動など、正直なところ「対岸の火事」程度の認識でしかなかったことを認めよう。さすがに、アメリカ同時多発テロがあったときは、もしかしたらこの日本もテロの標的にされるかもしれない、という恐怖を感じはしたが、ではテロリズムとは何なのか、なぜ世界じゅうでテロ行為がおこなわれているのか、そして、なぜ彼らがテロ活動という過激な方法をとるのか、あるいはとらざるを得ないのか、ということを真摯に考える必要を覚えたのは、他ならぬ本書を読み終えてからである。

 本書は上申書という形をとってはいるが、そこには著者がどのような家庭環境のもとで生まれ育ち、なぜ学生闘争に参加するようになり、レバノンに渡ってどのような活動をおこなってきたのか、言ってみれば著者がそれまで歩んできた人生の軌跡が書かれている。そして、本書を読むことで見えてくるのは、たしかに高尚な理想をかかげたひとりの革命家としての強靭な意思の力であると同時に、ひとりのまっとうな人間として、自分の思うところに正直に、まっすぐに生きていこうとする誠実な姿でもある。

 たとえば、人道に反するような不正はしないとか、仲間はなにをもっても大切にし、お互いに助け合って生きていくべきであるとかいったようなお題目は、おそらく誰に問いかけても正しいとうなずく考えであるが、じっさいに、この理不尽な世の中で生きている私たちにとって、そうしたヒューマニズムは唱えるだけでも胡散臭いと思わせるもの、しょせんはうわべだけの子どもっぽい考えでしかない、というのが正直なところであろう。世の中そんな奇麗事だけでやっていくことができれば、誰も苦労はしない。社会に出れば建前と本音を使い分けることを必然的に覚えるようになるし、人として大切だとわかってはいても、今を生きることの忙しさを、個人の力の非力さを免罪符に、とりあえず目をつむり、何も考えないようにする。自分だけがよければそれでいい――おそらく、今の日本に蔓延しているであろう悪しき個人主義から、著者をはじめとする日本赤軍メンバーはもっとも対極にいると言っていい。

 経済力を盾に資本主義国家のバックアップを受け、一方的にパレスチナ人たちを追い出し、その故郷を占領しつづけているイスラエルの行為が、さらに言うなら、そういう状況を生み出すきっかけとなった欧米列強の帝国主義的思想が、人道に反するひどいものであると理屈ではわかっていながら、だからといってそのことに何もできないし、またすることもない、という私たち日本人の大半の考えに反して、著者たちはアラブ側の支援のために武器をとって戦うという、おそらくはもっとも困難な道のりを選んだ。それは、けっして誰にでもできるようなことではなかった、という点は、認めるべきところである。

 本書を読んでいて面白いというか、不思議だと思ったことのひとつとして、日本や西欧諸国では「テロリスト」であり、「犯罪者」として扱われている著者が、アラブ諸国に行くと「英雄」として人々から多大な尊敬を受けている、という事実である。このいっけんすると矛盾している価値判断の違いを考えたとき、じつは私たちが今置かれている状況、私たちがあたり前のものとして受け入れ、疑問にすら思っていない事柄に対する大きな問いかけが発生することになる。

 無辜の人々の命を盾にとり、場合によってはその命を犠牲にしてでも、自分たちの要求を押し通そうとする彼らのやり方はたしかに卑劣であり、またあきらかな犯罪行為であることは私も同意するが、ではテロという行為が、たとえば金のために他人を傷つけたり殺したりする犯罪行為と同じなのかと考えると、必ずしもそうとは言い切れない部分がある。それは、通常の犯罪が社会構造の摩擦によって生じてくる現象であるのに対し、テロというのはその社会構造そのものにゆさぶりをかけている、という点である。そういう意味で、テロリストたちの攻撃対象はけっしてある特定の個人ではなく、あくまでその社会を支配している政府や権力者たちなのだ。そうした事実を、日本とアラブとの日本赤軍に対するとらえ方の違いが如実に教えてくれるのである。

 私たちが著者たちを「テロリスト」だと断罪するとき、ではその犯罪者たる「テロリスト」たちがなぜそのようになってしまったのか、ということを当局はどこまで真剣に考えてきたのだろうか、と思わざるを得なくなってくる。それは、たとえ国の維持、社会秩序を守るために、彼らの意見にはけっして耳を傾けるべきでないことは先刻承知だとしても、純粋に物事の道理といったものに照らし合わせたとき、どちらに非があるのか、という問題なのだ。たとえば、それまでテロに対しては法の裁きにかける、という方針を貫いてきたアメリカが、たとえ同時多発テロという転換点があったとはいえ、テロには軍事介入という方針に切り替えてしまったのは、極論を言えばテロリストの考えとなんら変わりがないのではないか、ということである。

 血族を超えて、共通の体験をもつ者が分かち合い、助け合い、命を賭けて守り合う時、そこに家族が生まれるように思います。――(中略)――愛は、人生を共にしようというパートナーシップ。それが、伴侶であれ、友達であれ、家族であれ、いちばんすばらしい愛だと思います。

 正直なところ、私には著者の考えがすべて正しいと思ってはいないし、そのやり方に疑問点もある。そしてそれは、著者自身も認めているところである。しかし、それでも本書のなかに書かれている著者の考えや思い、何より何事にもまっすぐに取り組んでいこうとする、今では珍しいほどの人間としての強い心には、共感すべきところも、学ぶべきところも多い。武力闘争という道を突き進んでいってしまった著者であるが、彼女がそこから実感した事柄を、現実のものとして体験することの難しい環境にいる私たちは、あるいはものすごく不幸な存在なのかもしれない。(2004.12.02)

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