【新潮社】
『海は涸いていた』

白川道著 



 幸福な者と不幸な者、裕福な者と貧乏な者、強者と弱者、勝者と敗者――この世の人間を二極化するという行為は、あたかも世界の真理を悟ったかのような気分にさせてくれるものではあるが、当然のことながら、世界は単純に二極化できるほど甘いものではない。幸福とひと口に言っても、大金を手に入れ、栄誉を勝ち取ることにしか幸福を見出せない者もいれば、愛する者と結ばれて、自分だけの家庭を持つことが幸福だと考える者もいる。同じように不幸な者にも、そうなってしかるべき、自業自得のような不幸を当然のごとく負う者もいれば、まるで神の気まぐれとしか思えないような、理不尽な不幸を招いてしまう者もいる。そしてもっともやっかいなのは、他人の不幸をダシにして自分の幸福を得るような輩が、この世にはゴロゴロいる、という事実だ。

 そう、ひとりひとりの幸福と不幸の量は、けっして同じではない。「他人の不幸は密の味」と言ったのが誰なのかは知らないが、この複雑で、私たちの心と同じく混沌とした現実世界の不幸は、あるいは水が上から下へと流れていくような、単純な法則にしたがって流れていくものではないか、という気がしてならないのだ。

 本書『海は涸いていた』に書かれた一連の事件は、とても悲しくてせつなく、やりきれない雰囲気に満ちている。なぜなら、そこに書かれた「幸福」とは、自分の欲望のためなら他人の心に土足で踏み込むことに何のためらいもない、自分勝手な者のために踏みにじられた「幸福」であり、そこに書かれた「不幸」とは、自分のこと以上に友情や愛といったもののために、命を投げ出すことを厭わない者が、吹けば飛んでしまいそうな、ささやかな幸せを守るために引き起こした「不幸」であるからだ。

 都内でレストランや高級クラブなどを何店か経営している「伊勢商事」、バブル崩壊による不況のなか、堅実な経営をつづける社長の伊勢孝昭は、じつはその裏で暴力団とつながっていた。東友会・佐々木組の組長、佐々木邦弘に誘われるままに、その世界に足を踏み入れた伊勢は、過去に二度、殺人を犯していた。
 自分のかつての名前とともに、人並みの幸せをすべて捨て、何かを振り切るかのように働きつづける伊勢にとって、同じくヤクザの世界に入った布田昌志や、孤児施設時代からの友人で、今は料亭を営む三宅慎二との友情、そして異父兄妹であり、今は日本を代表する天才ヴァイオリニストでもある馬渕薫の幸せだけがすべてだった。そんなある日起こった、同じ施設で育った藤代千佳子との再会――物語の前半では、主として伊勢を中心に、彼がどんな環境に育ち、どんなことを経験し、どんな人たちと出会い、そしてどんな理由があって殺人を犯し、今にいたっているかが、絶妙な間で差し挟まれる情景描写とともに、少しずつ明らかにされていく。そこには、説明的な文章をできるだけ避け、伊勢のまわりに人物や彼自身の心情をいかにも意味ありげに配置していくことで、読者の興味をつかみ、伊勢孝昭という人物を知ってもらおうという、著者の細かい気配りがあり、それが素晴らしいほどさりげないのが心憎い。

 物語の後半は、代々木公園の裏手で起こった殺人事件を軸に、捜査一課の佐古と大久保の刑事コンビからの視点と、思わぬ不運によってその事件に巻き込まれてしまった伊勢からの視点の、ふたつの流れによって物語が展開していく。被害者の岡堀宏はフリー記者、凶器として特定された三十八口径拳銃は、十年前に起こった、今では迷宮入りに近い状態となっていた殺人事件に使われていた凶器と一致していた。被害者、凶器、被害者がつかんでいた強請りのネタ、そして十年を隔てて引き起こされた殺人事件――犯人側と刑事側のふたつの視点で物語を重層的に語るという手法はけっして珍しいものではないが、本書の最大の特長は、犯人側の心情はもちろんのこと、刑事側の心情も非常に思い入れを込めて描かれている、という点だ。簡単に言えば、読者は犯人側にも、刑事側にも同じくらいの同情を寄せてしまうのである。

 あらゆる意味で、事件の最大のキーマンである伊勢と、佐古警部とは対極に位置する存在だ。優しかった継父の突然の死、それにつづく母の焼身自殺、今日子との恋と理不尽な別れ、そして、まるで寄生虫のように自分や母に不幸を撒き散らす実の父――自分の中の血を呪い、けっして家庭を持つまいと決心した伊勢と、刑事という職業には珍しく暖かな家庭を持つ佐古との雰囲気は、いみじくもこの書評の冒頭で述べたような「不幸」と「幸福」の対極でもある。そして、捜査が進むにつれ、伊勢がこの事件の中心にいることを確信するに到る佐古だが、同時に、度重なる「不幸」と、その「不幸」から自分以上に大切なものを守ろうとする伊勢のひたむきな姿にも触れることになる。

 犯罪捜査を長年やってくると、つくづく人間というのは孤独な生き物なのだと感じることがある。欲に駆られ、情に駆られ、時には人間がつくりだしたこの社会に対しての鬱憤にも駆られ、人は罪を犯す。しかし、どんな場合でも、いつもその根底には孤独という得体のしれない感情が横たわっている。

 冒頭で述べたように、人の不幸にはさまざまな形がある。そして、か弱い者たちが犯してしまう罪にも。だが、佐古は警察官であり、法の番人であり、罪は罪として犯人を挙げなければならない。そこにはたんなる警察機構の一員としてではなく、たしかに生きて感情のあるひとりの人間としての苦悩がある。だからこそ、この物語は悲しく、せつないのだ。

 伊勢が施設にいた頃から大事にしてきた、古びた地球儀、佐古が娘からもらった、お守り代わりの胡桃の実――情景描写とともに、こうした小道具の使い方がうまいのも本書の特長のひとつだが、そのふたつの品は、言うまでもなくふたりが心に抱いている夢の形だ。夢を見ることと、祈ることは、人間に与えられた特別なものだという表現が、本書には何度も出てくるが、伊勢と佐古は今回の事件で、いったい何を祈ることになるのだろうか。

 最後に、本書のすべてを象徴するこの引用を載せて、締めの言葉の代わりにさせていただく。伊勢の妹、馬渕薫のフィアンセであり、総売上高八千億円を誇る西地グループの御曹司でもある西地圭介に、佐古が語ったこの台詞の真の意味を、ぜひとも感じとってもらいたい。(2001.04.07)

 しかし、もしこの事件が、あなたと同じく薫さんを心から愛していて、しかしながらあなたほどに力のない、そんな弱い愚かな人間が自分の一生や生命を投げ出してまで彼女を守ろうとして起こしたものだったとしたら、あなたはどう思われますか? それでもまったく興味がないといわれますか?

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