【朝日新聞社】
『海辺の小さな町』

宮城谷昌光著 



 実を言うと、私はカメラというものに対して、あまり良い印象を持っていなかった。カメラ=カメラ小僧、盗撮、マスコミの過剰報道の副産物、日本人観光客が馬鹿のひとつ覚えのように持ち歩くもの――もちろん、それが私の偏見から生まれたイメージであることは百も承知でありながら、私がそのような悪いイメージから抜け出すことができなかったのは、他の芸術と較べて、写真はシャッターを切るだけ、そもそも目の前にあるものをあるがままにコピーして何が楽しいのか、という無知から出た考えが底辺にあったことは否めない。
 だが、そんな私のカメラに対する偏見が、たった一冊の本によって払拭されることになろうとは、正直思ってもみなかった。カメラが生み出す写真の世界の奥深さと、尽きることのない魅力――そんな要素がぎっしりと詰まっているのが、本書『海辺の小さな町』なのである。

 本書に登場する佐伯雄二もまた、最初はカメラに関して私と同じような意見を持つ青年であった。だが、大学進学のため、方南町という海辺に近い町でひとり暮らしをはじめるさいに、父から一台のカメラ――それも、ポジフィルムの入った一眼レフカメラ――を贈られてから、彼の生活は徐々にカメラを中心にして動きはじめる。彼が下宿することになる「メゾン・ブルー」の隣人であり、カメラを趣味にしている田安啓と知り合うところからはじまり、なかば振りまわされるように「クラブ・八の字」という写真愛好家のクラブの会員となった雄二は、その主幹である下手二郎の顔を立てるためにカメラ撮影の練習をはじめることになるのだが、その過程で、フィルターや露出補正など、道具や技術や光源の違いによって写真の世界が無限に広がるということ、そして写真とは、たんに記録するためのものではなく、たしかに自分だけの世界を創造する芸術であり、そこに撮り手の意識が反映されるということを発見する。

 写真に興味を持っている人はもちろんのこと、私のように写真は嫌いという人も、その世界に引っぱっていくだけの文章力と知識の深さを感じさせる作品である。そういった意味で、あるひとつの専門分野に詳しいもの書きの作品は強いな、と思わずにはいられない。それに加えて本書では、雄二や彼の両親の過去に関わりのある人たちが多数登場し、はたして彼の両親の過去に何があったのか、というミステリー的な要素や、大学四年間で雄二がカメラとともに成長していく青春小説としての要素、またちょっとしたラブロマンスの要素などもしっかりと物語の中にとり込んでおり、カメラの知識のまったくないような人でも充分楽しめる構成になっているところに、けっして専門知識におぼれることのない小説を書こうという著者の意志を感じることができる。

 私たちがふだん目にし、耳に聞くことで認識している現実の世界――だが、その現実はあくまで本人にとっての現実であって、他人と共有できるものであるとは限らないことは、おそらく周知の事実であろう。たとえば、赤緑色盲の人が見る世界は、私が見る世界とは違う。それと同じことが、カメラに関しても言うことができる。人間の目ではとらえることのできないもうひとつの世界を、カメラの目はとらえることができるのだ。雄二は物語の中で、カラースライド部門の月例写真コンテストに自分の作品を応募する。生真面目な性格の雄二は、過去の入選作品を丹念にチェックし、自分なりの傾向と対策を考え、研究に研究を重ねたうえで写真を撮り、応募するのだが、なぜか予選も通過しない。そんなとき、かつて人気絶頂のカメラマンでありながら、ある因縁でカメラをやめてしまった高桑亮という人から、ファインダーを見ないで写真を撮ってはどうかと勧められる。そうすることによって、「計算しているあいだに、もっとも熱く、もっとも美しい時が逃げ去って」いくのを止めてしまおう、という考えである。人間の目を頼ることなく、あくまでカメラの視点から世界を切り取ることを教えられた雄二は、その次の応募作品がいきなり二位にランクインされる、という快挙を成し遂げることになるのだ。

 写真を撮る目は、人がみむきもしない風景にも興味をむける。たとえばゴミでも、人が生きているというあかしであり、写真にとってはゴミではない。そのようにカメラを介在させると、存在するものの価値を変換することができる。そのひとつひとつが寄り集まって、人生の豊かさをかたちづくるようになる。

 もし、この書評を読んでいる方で、以前の私と同じような偏見をもっているようであれば、ぜひ本書を読んでもらいたい。きっと、あなたの知らない世界をまたひとつ広げてくれることだろう。(2000.01.13)

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