【講談社】
『うみ』

下井葉子著 



 「母なる海」という言葉に象徴されるように、海が持つ魅力は、そのまま女性が持つ魅力である、と言うことができよう。生きとし生けるものすべてをその体内ではぐくんできた海、そして、男の種をしっかりと受けとめて、その身に宿すことができる女性――その魅力、その神秘を前に、世の男たちがどんなに小難しい理屈をこねくりまわしたところで、けっしてかないはしない。あらゆる生き物が最後には海へと還ってゆくのと同じように、男もまた、自分が還ってゆくべき女を求めずにはいられない――本書『うみ』が物語っているのは、あるいはそういうことなのかもしれない。

 そう、物語の流れは、湧ニが宝実島――傷ついた美宝子がいる島へと向かったそのときから、すべてが決定づけられていたのだ。あるいはもっと以前――湧ニが実宝子とたった一度だけ関係した、その瞬間から。沖縄周辺に古くから伝わる豊年祭を追っていた湧ニは、まさに行くべくして宝実島へ行き、会うべくして実宝子と会い、そして深めるべくして仲を深めていく。

 今から一ヶ月前、湧ニと実宝子、そして湧ニの兄との間に何があったのか――おそらく前作『はいぬしま』を読めば詳しく書かれているであろう物語は、本書では深く触れていない。だが、ともかく兄の耀一と実宝子は心中しようとして、実宝子だけが生き残り、弟の湧ニはそんな彼女とたった一度だけ性行為におよんだ――その事実が少しずつ明らかにされていく形で、物語は進んでいく。

 あらゆる束縛から自由であること――どこにも所属せず、自分が自分であるというアイデンティティーさえ持つことを拒否し、永遠に空虚なまま流れていくことを願う湧ニにとって、実宝子の存在は、あるいは旅人の喉を潤すオアシスでしかなかったのかもしれない。だが、実宝子にとっては、傷ついた自分を支えてくれる確かな何かが必要だった――たとえ、それが心中をはかった男の弟であったとしても。やがて、実宝子は妊娠の事実を湧ニに告げる。湧ニを引きとめ、できるなら父親として支えてほしいと願う実宝子にただ戸惑い、否定し、子供を堕ろさせようとさえする湧ニ。はたして、二人が最終的にとった結論とは……。

 沖縄やその周辺の島々を舞台にした物語、と言うと、私はどうしても池上永一の『バガージマヌパナス』や『風車祭』といった傑作を思い出してしまうのだが、『バガージマヌパナス』や『風車祭』が、あくまでウチナンチュー(沖縄人)を主人公にし、ウチナンチューの目から沖縄独特の世界を描いているのに対し、本書『うみ』はヤマトンチュー(日本人)を主人公に、ヤマトンチューの目から見た沖縄の風土を、自然の神秘に満ちた世界として、やや硬質な文体で表現しようとしている。そう、たとえ、その世界の人間たちと仲良くなり、その自然や気候に心を奪われても、けっきょくのところヤマトンチューにとって、そこは異邦の土地。傷ついた心を癒すために一時的に立ち寄ることはあっても、いつかはそこを去る時が来る。だが、生命力溢れる南の島に身を置くことで、きっと気づくことになる。次々と生まれ、子孫を残すために繁殖し、やがて年老いて死んでいく――連綿と続く「遺伝子が織り成す大きなものの末端」としての自分の姿に。そして、それはごくごく自然な、あたり前の事実である、ということに。

 庭の中程にもう実をひとつも残していないパパイヤの木が一本薄闇に半ば溶け入りながら立っている。もうひとつも実をつけてはいないが、だが常夏の地では巡ってくる春を待つこともなくまたすぐに花を咲かせ重い実を揺すりはじめるだろう、性懲りもなく、繰り返すだろう、終わりなき増殖の営みを波の音のように途絶えることなく、反復しつづけることだろう。

 私たちは生まれるまで羊水という海のなかにたゆたい、生まれてからもその体の大部分を海で維持しつづけ、そして死ねば体は腐乱し溶解して、やがては海へと還ってゆく。人がどんなに個人で独立した存在になろうとしたところで、その体が持つ自然の営みからは逃れられないし、それはおそらく不自然なことなのだ。本書を読み終えて、今の世の中、不自然な生き方を選び、それゆえに苦しんでいる人が、あまりにも多いような気がしてならない。(1999.05.28)

ホームへ