【新潮社】
『ウルトラ・ダラー』

手嶋龍一著 



 想像力とは、ただたんに奇想天外な事柄を妄想するためのものではなく、人としてよりよく生きるためのものだと思っている。たとえば、私たちは基本的に主観的な生き物であって、自分以外の人たちのことを完全に理解することはできない。そういう意味では、人間というのはこのうえない孤独をかかえて生きているわけであるが、「もし自分がその人の立場だったら」という、他人を思いやるための想像力は、たとえ不完全で一方的なものではあるかもしれないが、他人とのつながりを求めずにはいられない私たちにとってなくてはならない力だと言える。また、人々はさまざまな犯罪や自然災害に見舞われているが、それらの思いがけない出来事を他人事としてではなく、自分の身にも起こりうることとして想像する力は、そのまま自分を守り、また被害を最小限に食い止める可能性を高めることにつながっていくものでもある。

 だが、どれだけ想像力の豊かな人であっても、何もないところから物事を想像するのは難しい。想像とはけっきょくのところ、仮定の範囲を超えるものではないのだが、それでもなお自分の想像を真実により近づけていくためには、情報が重要な役割をはたしている。そしてその情報は、質の高いものであればあるほど想像と現実との差を埋めてくれる。想像と妄想との違いは、ひとえに情報の質の違いにあると言っても過言ではないのだ。

「あの河原の石ころを見たまえ。――(中略)――心眼を備えたインテリジェンス・オフィサーがひがな一日眺めていると、やがて石ころは異なる表情を見せ始める。そう、そのいくつかに特別な意味が宿っていることに気づく。――(中略)――知性によって彫琢しぬいた情報。それこそ、われわれがインテリジェンスと呼ぶものの本質だ」

 本書『ウルトラ・ダラー』について、ごく簡潔に説明するならば「現代を舞台にしたスパイ小説」ということになる。タイトルにもなっている「ウルトラ・ダラー」とは、北周りルート、つまり北朝鮮を発生地とする極めて精巧につくられた偽物の百ドル札のこと。アメリカ合衆国がその威信をかけて製造し、最高水準の印刷技術をふんだんにつぎこんだ百ドル札と寸分の違いもなく、通貨偽造犯罪を専門としている捜査官でさえ、そのあまりに精緻なつくりに舌を巻いたという「ウルトラ・ダラー」――おそらく、国家プロジェクトとしてこの偽札作りにとりくんできた北朝鮮の目的は、はたしてどこにあるのか? イギリスBBCのラジオ特派員にして、英国秘密情報部の異端児でもあるスティーブン・ブラッドレーを主人公に、この「ウルトラ・ダラー」の裏にある北朝鮮の陰謀を探り出していく、という形で展開していく本書ではあるが、本書を読んだ人は、はたしてこの本が事実をもとにしたドキュメンタリーなのか、あるいはあくまでフィクションであることを前提とした小説なのか、その判断に一瞬迷うことになるだろう。

 もちろん、それだけたしかなリアリティーを感じさせる作品ということであり、じっさいに本書にちりばめられている豊富な専門知識や、「ウルトラ・ダラー」をめぐる各国の思惑、権謀術策のありかたなどは、間違いなく私たちの生きる現代の国際社会の事情にそのままあてはめることのできるものである。だが、そうしたリアリティーのありかたもさることながら、本書においてもっとも注目すべきなのは、ドキュメンタリーとしての要素と、小説としての要素が乖離を起こしているという点である。

 上述したように、本書における主人公格の登場人物がスティーブンであることは間違いない。プロローグにおいても、彼は浮世絵のオークションの場面に取材員として登場している。だが、そこから第一章に入ると、本書の雰囲気は小説から一気にドキュメンタリー風なものへと変化する。特定の主役というべき登場人物は陰をひそめ、何年何月、どこで何が起こったのか、という事実を淡々と書き綴っていく形式になっているのだ。少なくともこの時点において、本書の中心に据えられているのは「ウルトラ・ダラー」そのものであり、あきらかにこの国際謀略の行方に焦点をあてることが本書のテーマとなっている。

 いや、本書があくまでスパイ小説であると考えるのであれば、本書の本当の主人公は常に「ウルトラ・ダラー」であり、登場人物たちは、その巨大な陰謀に巻き込まれてしまった人々、という位置づけにすぎないというスタンスであっても、とくにおかしなところはない。にもかかわらず、本書のなかにドキュメンタリーの要素と同時に、小説としての要素――悪く言うならつくりものめいた雰囲気を強く嗅ぎとってしまうのは、そこに取り扱われている数々の情報の圧倒的なリアリティーに反して、登場人物たちの行動のいちいちが、いかにも小説めいているからにほかならない。

 そもそも国際的な謀略をテーマとしたスパイ小説は、東西冷戦時代において隆盛を誇ったジャンルであり、それゆえにソ連の崩壊とともに冷戦の緊張が緩和され、各国の諜報活動も以前ほどの意義を失いつつある現在、この手のジャンルは小説としては時代遅れとなってひさしいものがあるのも事実である。そういう意味では、まぎれもなく現代の国際社会を舞台としてまっこうからスパイ小説を、それも、北朝鮮の陰謀から世界的クライシスへとつなげていくことで、かつての冷戦時代を思わせる緊張感を、たしかなリアリティーとともに描き出すことに成功した本書は画期的だと言える。だが、そうした情報としてのリアリティーとは裏腹に、そこに登場する人物の、ある種のレベルの高さ――知的な会話をこなし、心理的駆け引きにもタフさを見せ、趣味も品がよく、ときにやぼったいほどに修辞的な表現を織り交ぜる彼らの言動は、私たちの生活する場からはあまりにもかけ離れてしまっているのだ。

 もちろん、そもそも読み手の大半が、国際政治の世界について精通しているわけではなく、それゆえに諜報活動を行なうことを主とする人々の生活がどのようなものであるのかなど、なかなか想像しがたいものがあるのもたしかだが、それでも、たとえば高村薫の初期の作品のように、国際謀略をテーマとしながらも、その世界に生きる人々を生き生きと描くことも、けっして不可能なことではない。であれば、まるでねらったかのように、本書の登場人物たちにかぎって、誰もがファンタジーの住人であるかのような言動をあえてとるということそのものに、ひとつの意味があると考えざるをえなくなる。そしてそんなふうに考えたとき、本書の登場人物たちの、いかにも小説のような言動は、何かをカモフラージュするためのものである、という結論へとたどりつく。

 つまり、物事の真実を覆い隠すために、あえてフィクションであるというスタンスをとっている、という雰囲気づくりこそが、もっとも重要なことだったのではないか。そうすることによって、その中心にある「ウルトラ・ダラー」という最大のテーマにまぎれもないリアリティーを付加させることができる。だが、本書がスパイ小説である以上、「ウルトラ・ダラー」もフィクションだと考えるのが普通だ。真実の一端をフィクションのなかにまぎれこませる――まぎれこませた真実は、「ウルトラ・ダラー」そのものであるとはかぎらない。だが、本書の展開を読んでいくと、ほんのちょっとしたパワーバランスの乱れが、一気に国際情勢を一変させてしまう可能性があるという危機感は、たしかなものとして読者の心に残る。はたしてあなたは、本書のなかにどのようなインテリジェンスを見出すことになるだろうか(2006.05.01)

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