【角川書店】
『ユグドラジルの覇者』

桂木希著 
第26回横溝正史ミステリ大賞受賞作 

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 私たちにとっての「世界」とは、いったいどこからどこまでを指すのだろうか、とふと考えることがある。

 世界は広大で、私たちが目にすることができるのは、そのほんの一端でしかない、ということを私たちは知っている。だが、同時に私たちにとっては、ふだんの生活のなかで接することができる部分こそが全世界だということもよく知っている。たとえば、世界のどこかで戦争が起こったり、大規模な災害で大勢の犠牲者が出たり、あるいは二酸化炭素の増加が地球温暖化の原因の一端となり、生態系に大きな影響をあたえていることを、知識として知ってはいても、私たちのふだんの生活に重大な影響をおよぼさないかぎり、それはけっきょくのところ「別の世界の話」で終わってしまうことになる。地球の危機についてどれだけ多くの情報を提示したところで、今日明日を生きることに懸命な人たちにとっては何の意味もない情報である。耐震強度偽装問題にしろ、北朝鮮の拉致の問題にしろ、その事件の当事者でないかぎり、今日どこのデパートで何が特売なのかという情報のほうが、多くの人たちにとってはるかに重要な関心事だったりするのが、私たちの生きる世界の実態である。

 それは、愚かといえば愚かな振る舞いだろう。自分たちの乗っている船が沈没しかけているにもかかわらず、そこに運び込まれたわずかな財産をめぐって争っているようなものだと糾弾する人もいるかもしれない。だが、誰もが「世界」を文字通りの意味で――広大で、さまざまな人種や価値観によって成り立っている複雑多様な世界としてとらえることができるほど、才能や環境にめぐまれているわけでないことを忘れてはならない。世の中はけっして人々に平等でもないし、数々の理不尽な事柄に満ちてもいる。しかし、それでも生まれてきた以上、人々はその理不尽さに立ち向かってでも生きつづけるしかない。そもそも、自分の知る世界が小さければ、何かに対して理不尽だという思いすらいだくこともないかもしれないが、おそらくそれこそが、私たちの一番よく知っている、ちっぽけではあるが親しみのもてる「世界」なのだ。

「この手を取ってくれ。前にも言ったがもう一度言おう。さあ、世界を賭けた戦いを始めよう」

 本書『ユグドラジルの覇者』という作品について、さまざまな意味でそのすべてを物語っているのが上述のセリフだと言うことができる。元大手電機メーカーの研究所ではたらく技術者でありながら、職を捨て、世界のあちこちを放浪したあげくリオネジャネイロの貧民街で暮らすようになった矢野健介に対して、「ラタトクス」と名乗る男がかけた言葉――この時点で、すでに何か大きなことが起こりそうな気配を匂わせる本書であるが、じつはその後の物語の展開のなかで、このふたりが表舞台に登場することはほとんどなく、ごくわずかにその影が見え隠れするのみとなってしまう。

 本書のタイトルにも入っている「ユグドラジル」とは、北欧神話に登場する世界樹のこと。本書では世界中に張りめぐらされたネットワーク世界の象徴としての意味合いを帯びる言葉になっているが、200X年に実現した電子商取引の国際間統一基準の批准によって、その言葉は比喩でも何でもない、まさに世界経済そのものを象徴するようになった。世界中の企業はもちろんのこと、一個人であっても、コンピュータを使っての取引を可能とする電子ネットワークの世界――その未開拓の沃土をめぐって、アメリカ、EU、アジア各国が壮絶な富の奪い合いを開始する。それは、才覚さえあれば誰でも勝ちあがっていくことができる群雄割拠の世界であり、また真の意味での自由経済の時代、厳しい弱肉強食の時代の幕開けでもあった。

 こんなふうに本書の内容を紹介してしまうと、まるで新時代の覇者をめぐるマネーゲームの成り行きを描いた作品のように思われるかもしれない。じっさい、本書にはアメリカ最大のIT企業のCEOやEU最大の経済グループの女社長、あるいは華僑を束ねる長老や世界の金融界を陰で支配する大財閥グループといった、ひとクセもふたクセもありそうな猛者たちが次々と登場し、それぞれがそれぞれの思惑をいだいて電子商取引の世界でしのぎを削っており、また秒単位で膨大な金が動いていく相場や投資の世界は、たしかにかつての戦国時代を思わせるような高揚感を読者にもたらしてくれる。それもまた本書の特長のひとつであることはたしかだが、本書の本当の読みどころは、そうした巨大な資本をもつ者たちを相手どって一歩も引かないどころか、まるで手玉に取るかのように彼らを思いのままに動かしていく正体不明の個人の存在である。

 はたして、シンガポールの相場を自在に支配し、その裏で非常に手の込んだ策略を張り巡らせた策士は誰なのか、そして彼らの真の目的とは何なのか? もし本書にミステリーとしての要素があるとすれば、それは電子商取引の世界を縦横無尽に駆け巡る、おそらく矢野健介と「ラタトクス」と思われる者たちの、一連の行動の裏にある動機ということになるのだが、それにも増して本書において重要な要素となってくるのは、彼らが電子商取引の世界を戦っていくさいに用いている武器が、そのまま彼らの目的にも直結している、という本書の構造にこそある。

 圧倒的に巨大な力をもつ者を相手に、たいして力のない者たちが、わずかな知恵と勇気をもって立ち向かい、打ち負かしていく――それは、たしかに物語としては胸のすくような展開ではあるが、本書の場合、弱肉強食の電子商取引の世界を舞台としながら、そのじつ安易に勧善懲悪を描こうとしているわけではない。本書を読んでいくと徐々に見えてくることであるが、彼らのとった手段は、いっけんすると底知れない勢力の存在を匂わせたり、まるで魔法のような手段であったりしながらも、タネが割れればじつはなんてことのないトリックでしかなかった、というものがほとんどである。だが、その作戦は、まさに彼らが狙いとした個人の心理を見事に捉えた、まさに裏の裏の裏をかくようなものであり、そういう意味ではじつに緻密な心理戦をえがいた物語だと言うことができる。

 膨大な資本でもない、あるいは強大な権力の後ろ盾でもない、ほとんどブラフに近い手札でありながら、それでもなお戦いをはじめると決めた彼らの、ほぼ唯一の武器が、まさに人間の心理であったというのは、この物語の根底にあるテーマの象徴だと言える。どれだけネットの世界が広がり、電子商取引が世界規模で経済を動かすようになっても、そのネットの末端につながっているのは、血の通ったひとりの人間だという事実――そして、そこまで見えてきたときに、読者はようやく、彼らが何のために無謀ともいえる戦いを、誰に対して仕掛けていたのかを知ることになるのだ。

 世界の覇権をかけた戦い――まるで、小説やドラマのなかだけで成立するような展開を、たしかなリアリティーをもって描くことに成功した本書であるが、純粋に勝ち負けの世界のなかにあって、なお勝つことや負けることの意味をあらためて問うているような彼らの戦いは、自らが覇者たらんとするための戦いではなく、むしろ誰かが覇者となるのを食い止めるための戦いだったと言える。そしてそれは、それぞれの人間が抱える価値観、個人が個人であることの自由を求める戦いでもある。

 世界とは何なのか、自分と世界とのつながりはどのようなものなのか、そうした問いかけをせずにはいられなくなるものが、本書にはたしかにある。(2006.07.20)

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