【新潮社】
『海の仙人』

絲山秋子著 



 欲望というものは、人間として生まれてきた以上、その程度の差こそあれ、誰もが必ずもっているたぐいのものである。そして、この個々人の欲望の形はけっして同じというわけではない。人の性格が千差万別であるのと同じように、欲望の形もまたさまざまなものがあり、それこそが多様性を容認する社会の正しい姿である。だが、たとえば巷に溢れる情報に目を向けてみると、「美人になるには」とか「お金持ちになるには」とか「健康を維持するには」などなど、まるでそれこそが人間として正しい欲望のありかただ、と言わんばかりのイメージに、私たちが常にさらされていることに気づく。

 素敵な異性と恋人どおしになる、結婚して幸せな家庭を築く、商売や投資などで大金を稼ぐ、有名人になる――それは、たしかに素敵な生き方のひとつではあるかもしれないが、しかし同時に、誰もがそうした生き方に幸せを感じることができるわけではないこともまた事実である。なかには「恋人なんかいらない」と思う人だっているし、「結婚なんかしたくない」と考えている人だっているだろう。現状としてそうした生き方のほうが、自身の欲望をよりよく満たすことができるのであれば、その意思は尊重されるべきであって、社会が提示する、いわゆる「正しい生き方」をすべての人に押しつけようとする姿勢こそが、むしろ乱暴だと言えるだろう。

 本書『海の仙人』に登場する河野勝男は、福井県敦賀市の古い一軒家でひとり暮らしをしている青年である。彼は宝くじで3億円を当てて以来、それまで勤めていた東京の会社を辞め、日本じゅうをまわった末に敦賀市の海に近い場所に定住することを決めたのだが、とくに贅沢な暮らしをしているわけでもなく、またさらなる金儲けにあくせくするわけでも、博打や女遊びに散財するわけでもなく、ひとりで釣りや料理をしたり、本を読んだり、何か意味があるとはとても思えない肉体労働をしたりといった、言ってみれば若いながらすでに社会そのものから隠遁しているかのような、ちょっと年寄りくさい生活をつづけている。本書のタイトルである「海の仙人」とは、言うまでもなく河野のことを指している。

 お金に執着しない、仕事や特定の趣味に生きがいを感じているわけでもない、結婚や家庭をもつことを望んでいるわけでもない――少なくともお金に不自由するわけではない環境にあって、そうした暮らしはたしかに悠々自適の、考えようによっては贅沢な生活ではある。本書が第130回芥川賞の候補になったのは、おそらく河野のライフスタイルが、それまで社会が押しつけてきた「人生プラン」とはまったく異なった価値観から成り立っている、という点で、既存の何かが壊れつつある現代社会のありようをうまく反映していると判断されたからだろうと思われるが、本書の本質は、おそらくそことは別のところにある。そして、その鍵となるのが「ファンタジー」と呼ばれる存在である。

「白いローブを着た、四十がらみの男の姿」で河野の前にあらわれ、彼の家に居候することになった「ファンタジー」とは何者なのか、というよりも、何なのか。河野は彼を知っていたし、後に河野の恋人となる中村かりんも彼を知っていた。数少ない友人のひとりである片桐は彼のことを知らず、片桐の友人の石原めぐみは、「バレエをやってるときに会った気がする」と言う。おそらく、「ファンタジー」の正体について探ることは、人がなぜこの世に生を受けたのかを追究しようとすることと同じくらい無意味なことだ。大切なのは、個々が自分自身の問題にぶつかり、自分ひとりの力でそれをなんとかしなければならないような状況に陥ったときに、「ファンタジー」の存在を意識する、という点であろう。

 河野はかつて、姉とのあいだにおこったある事件のために、セックスという行為に嫌悪感をいだいており、それゆえに中村かりんともセックスレスの関係がつづいている。そして河野は、その悩みを自分自身の問題として、誰にも話すことなくずっと抱え込んでいた。それは言い換えれば「孤独」ということにもなるのだろう。もちろん、人は誰もが孤独な生き物であり、それはたとえば結婚したり、子どもが生まれたりすれば解決するようなことではない。世の中には、たとえ夫婦や親子といった関係にあっても、明かすことのできない何かを抱えざるを得ない人たちはいるものだし、どんなに多くの気のおけない人たちに囲まれて暮らしていたとしても、自分が孤独になる瞬間はかならず存在する。そういう意味では、本書が河野勝男という、俗世のあらゆる欲望からかけ離れたような登場人物を物語の中心として添えたのは、人間であるがゆえに抱えざるを得ない「孤独」という大きな問題を、より鮮明に描き出したかったからだと言うことができる。だが、それは河野という人物だけによって成されたことではない。

 たしかに河野が、人間がもっているいろいろな欲望からずいぶんかけ離れた場所にいる、という意味で、「孤独」と向かい合うのにふさわしいキャラクターであるのは間違いないのだが、彼は言ってみれば常に「孤独」と近しい場所にいたわけで、それだけ「孤独」を見えにくくしている、という見方もできる。むしろ重要だったのは、唯一ファンタジーの存在を知らなかった片桐という女性が、河野を介してファンタジーと出会った、ということではないだろうか。なぜなら、孤独であるということ、自分自身の力で向き合わなければならない問題がある、ということを、片桐はファンタジーの存在を通して強く意識することになるのだから。

「ああ、だから、お前さんが生きている限りファンタジーは終わらない。俺様のことなんか忘れてもいいのだ。それは致し方ないのだ。だが、お前さんの中には残るのだ」

「ファンタジー」という言葉のそもそもの意味は「空想」とか「幻想」とかいったもので、ともすると現実とは対極に位置するものという認識があるかもしれないが、そもそも何かについて空想するというのは、他のあらゆる価値観を受け付けない、自分独自の想いを解放することでもある。それは、見方によっては「孤独」であることと同義のようにも思える。自分にとって大事なこと、譲れないもの――そうしたものを抱えながら、それでも人との関係をつづけていくこと。これまでにない、じつに不思議で静謐な、人としての生き方のひとつが、本書のなかにはたしかにある。(2004.12.27)

ホームへ